日本基督教団久我山教会牧師 CMCC理事 尾 崎 マ リ 子 |
「ボランティア」とは
1991年5月創設以来、「心病む人と共に」在ることを目指して歩んでまいりましたCMCCの活動は、今年15年目に入ります。
毎年、自殺者が3万人を超えるといわれる混迷した現代社会にあって、心病む人々も増加の一途をたどり、「心病む人々の友」として
のCMCCの存在意義は大きいと思います。 CMCCの運営細則第三条に、CMCCは「キリスト教の精神に基づく民間のボランティア団体」であることが明記されています。その上に立って、心病む人々とその家族を援助
すべく、必要な知識と技術を学びつつ、メンタル・ケアのボランティア活動体として、社会に仕えていきたいと思います。
ところで、「ボランティア」という言葉は最近、世間で安易に使われます。しかし、本来の意味では「ボランティア」は、「自由意志」のことであり、教会礼拝の前後に捧げら
れるオルガン独奏のことでもありました。そのことを通して神への感謝と喜びを自由に表しました。そこから出てきた「ボランティア」の意味は、自由意志をもって行動する志
願者であり、その根本に神への感謝と喜びをもって奉仕するという精神がありました。また、自発的なボランティアの活動によって、訪問伝道が推進されていきました。
聖書の中では、奉仕を「ディアコニア」、奉仕者を「ディアコノス」という言葉で表していますが、その奉仕は「食卓での世話をする」という基本的な意味から拡大されて、根
源的に、イエスご自身の言葉と行動と死とを「奉仕」と呼んでいます。また、主イエスが弟子たちに言われた「仕えるものとなりなさい」ということは、主イエスの奉仕に傲い、
その奉仕を通してイエス・キリストを人々に伝えることを命じられたのです。
これらの意味をふまえて、ボランティア団体としてのCMCCの活動の基本にあるものは何かを、改めて考えたいと思います。
まず第一に、クリスチャン・メンタル・フレンド(奉仕者)は一匹狼で業を競い合うのではなく、お互いが神によって呼び出されて神に用いられ、神の業に参画させていただい
ているのです。そのことに誇りを持ち、力を惜しまず隣人に仕えてゆくことが求められています。「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のよう
に愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」(マルコによる福音書12:33)。
第二に、自分を他の人より優れたものとせず、自分の足りないことをまず自覚すること。
互いに尊敬し合い、支え合い、仕え合って、自分たちを必要としている人々のために、協力して最善を尽くすことです。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだっ
て、互いに相手を自分よりも優れた者と考え…」(フィリピの信徒への手紙2:3)とあります。
第三に、このような奉仕によって、本当の自由が何であるかを知ることができます。聖書に「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪
を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤの信徒への手紙5:13)とあります。
愛とは、相手のために進んで自分の持っているものを捨てる道を選ぶことです。それは心の方向を常に自分自身のことにのみ向けているか、あるいは、他者の心の痛みをどこ
までも自分の痛みとして受け取ることに努力しているか、ということにかかっています。
イエスの愛に生かされて、わたしたちの心が本当に自由であるときに、何ものにも惑わされることなく、後者を選び取ることができるでしよう。
奉仕から聴くことヘ
カウンセリングの基本である「傾聴」は今ここに、自分にとって大切な人がいるという認識から始まります。それがないと、自分への思いがユーザーの声をさえぎってしまっ
て、相手の訴えをキャッチできなくなってしまいます。声は聞こえても聞き流してしまうのです。「聴く」ことも、自分を捨てて相手を受け入れるという愛の奉仕です。
ところで、イスラエルの律法に定められている「隣人を愛する」というその相手は、自分の仲間に限るという厳しい制限がありました。イエスはその制限を福音によって取り
払われました。ユダヤの律法学者たちがイエスを試そうとして「わたしの隣人とはだれですか」と言ったことに応えてイエスは「善いサマリア人」の話をなさいました。エルサレ
ムからエリコに向かう途中で追いはぎに襲われた半死半生の旅人が、隣人であるはずの同族の祭司、レビ人の目にとまりましたが、彼らは見ぬ振りをしてその場から去って行
きました。最後に現場を通りかかったサマリア人(当時、ユダヤ人との交際を禁止されていた)によって旅人は助けられました。イエスはこのサマリア人においてご自身の愛を
語っておられます。
この話の前に、「わたしの隣人とはだれですか」と、自分が助けるべき相手を特定してイエスに尋ねた律法学者たちの問いは、イエスによって、主、客を置き換えられて、「だ
れが…隣人になったと思うか」という問いとなっています。これは、ユダヤの律法による特定の人だけの隣人となって愛をそそぐのではなく、律法の制限を取除いて、どの
ような人にも愛を注ぐことのできる隣人となるということです。
これはCMCCのボランティア活動に対する問いかけでもあります。ユーザーとの出会いの中で、クリスチャン・メンタル・フレンドがそのように自由な隣人として謙虚であ
り続けることが要求されます。自分のもっているメッセージを相手に与えようとする前に、相手が語るメッセージをまず聴き取らなければなりません。
CMCCのボランティア活動の原動力は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」という主のみ言葉を心に深く記憶し続けることで
ありましょう。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(ヨハネの手紙T 4:12)
と約束されています。