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陰府にくだりて
日本基督教団吉祥寺教会牧師
CMCC理事

            
吉 岡 光 人

キリスト教教理と牧会カウンセリング
 私が東京神学大学で組織神学を教えていただいた故熊澤義宣先生(CMCC前理事長)は、よくこのようなことをお話されました。「崖から落ちそうになったら、必死でしがみつくの ではなくて、手を離せばいいのです。陰府の底に落ちていっても大丈夫です。一番深いところでキリストが受け止めてくださるからです。そういう信仰を持つことが大切なので す。」熊澤先生は使徒信条の「主は…陰府にくだり」という一文を引用してそのことを説明されました。熊澤先生はまさにその通りに人生を送られた方だと思います。教理とい うものが実生活から離れてしまうものではなくて、むしろその人の生き方と結びついていることが大切ですが、私自身の人生観にも学生時代の師の教えが大きく影響しています。

 そして、牧師として働き、また牧会カウンセリングを学んできますと、このことがさらに実感として迫ってくるのです。カウンセリング理論と神学的な教理とは、決して遊離し ているものではなくてむしろ切り結ぶものだということがひしひしと感じられるのです。

恐れずに谷底に下りてゆく
 メンタル・フレンドとして話を聴くとき、ユーザーの心の中の深い闇の部分と関わらなければならないことも当然あると思います。私たちはその深い闇の部分にまで耳を傾ける わけです。それは言わば、ユーザーと一緒に谷底深く下りてゆくようなことです。そこがどれほど深く、どれほど暗いところなのかと想像してしまいますと、「果たして私はそこま で一緒に行くことができるのだろうか。そこから戻ってこられるだろうか」と恐ろしくなることもあります。そのような不安を感じると、無意識のうちに心理的なブレーキをかけ てしまいます。これ以上巻き込まれないように心防御してしまうわけです。しかしそれでは、ユーザーの本当の気持ちに共感することはできないままです。悲しみや怒りや絶望に 共感することが私たちの使命なのですから。自分は安全なところにいて、絶望の中にいるユーザーを励まそうとすることは、谷底にいるユーザーに対して崖の上から呼びかけてい るに過ぎないようなことなのです。崖の上から「頑張ってここまで登っておいで」と励ますことは、親切のように見えますが、実はユーザーの心の状態とは大きく隔たっていると えます。どれだけ気の利いた言葉をかけても、どれだけ大声で励ましても、決して心の距離は縮まることはありません。もし頑張って登れるのだったらとっくに登ってきているでし ょう。それができない状態にある、だから誰かの援助や支えを必要としているのですから。私たちの役割は、どん底にいて這い上がれないでいる隣人のために、崖の上から呼びかけ るのではなくて、崖下まで下りて行き、その人のそばに行くことなのです。そしてその人が経験している闇を一緒に経験することなのです。そのようにして初めて援助を求めてい る隣人と「共にいる」ことになるのです。

 そのためには、谷底を下りてゆく勇気を持つ必要があります。私たちは自分の心の中にある不安や恐怖心と戦わなければなりません。どうしたら、不安を取り除き恐ろしさを克服 することができるでしょうか。どうすれば勇気をもって谷底まで下りてゆくことができるのでしょうか。それは、その人の精神的強さや経験から来る技術・知識の豊富さというこ とも要素の一つであるかも知れませんが、決定的なことではありません。最も大切なことは、「一番底には誰がいるかということを知っているかどうか」だと私は思うのです。つま り、「この谷底にはキリストがおられる。きっと私たちを受け止めてくださる。そして、そこから這い上がる力を与えてくださる。だからどんなに深く落ちていっても大丈夫なの だ」という信頼感です。信頼こそが私たちに勇気を与え、不安と恐怖心を克服する力を与えてくれるのです。使徒信条の「陰府にくだり」という信仰の告白の文は、キリストが陰 府の底にまで下りられたという事を言い表しています。私たちがどんなに深い所まで落ちていっても、必ずそこでキリストが私たちを受け止めてくださり、そして必ずそこから引 き上げてくださると信頼することができるのです。このように考えてきますと、人の話を聴くという奉仕はとても「スピリチュアル」なことがらだと言うことができると思います。

自分の生き方が問われている

 傾聴するためには技術と経験が必要です。感情に対する感性も養う必要があります。そのために私たちは学びと研鑽を続けなければなりません。「もう十分だ」ということはあり 得ないと思います。継続して学ぶことによって傾聴の技術や人間の感情に対する感性が少しずつ磨かれてくるのです。しかし技術や経験だけではよい傾聴者にはなれないと思いま す。むしろ技術や経験にばかり頼ることは危険でさえあると思うのです。もっと根本的なもの、つまり「その人の人間性」が大きな意味を持っているのです。問われている人間性 とは、「善い人間である」とか「強い人間である」ということではありません。一人の人間としてしっかりとした土台に立って生きるということです。その土台を確認しつつ生きる ということによって初めて「よい隣人」となることができると思います。

 隣人の話を聴くということは、時には不条理な間題に関わることもあるでしょうし、聞いている側が絶望したくなるような間題を抱えた人と関わることもあるかも知れません。 そしてそのようなとき、「なぜこんな難しいケースに関わることになってしまったのか」と思いたくなることもあるでしょう。自分の力量のなさに嘆きたくなることもあるかも知れ ません。しかし大丈夫です。どんなに行き詰まってもそこには主がいてくださるからです。

   どこに行けば
    あなたの霊から離れることができよう。
   どこに逃れれば、
    御顔を避けることができよう。
   天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
   陰府に身を横たえようとも
    見よ、あなたはそこにいます。

                   (詩編139:7〜8)

 詩編の詩人のように主を信頼し、安心して 奉仕の業を続けて行きましょう。