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クリスチャン・メンタル・フレンドの役割と課題
−「すること」から「いること」への援助 −
キリスト教メンタル・ケア・センター理事
キリスト教カウンセリングセンター相談所長

            
賀 来 周 一

いるだけでよい
 この時代、ほとんど聞くことのない言葉があります。「いるだけでいいんだよ」がそれです。世の中は学校でも、家のなかでも、「頑張れよ」、「勉強しなさい」、「努力しなさい」の氾濫です。子供たちはこれらの言葉を毎日飽きるほど聞かされます。もしだれかが「そこにいるだけでいい」と言おうものなら、「何もしないなんてとんでもない。それは怠け者の言うことだ。そんなことでは世の中を渡っていけない」とたちどころに反論されるのが落ちでしょう。世の中は頑張ってなにかする、一生懸命努力することを求めているものだ、という価値観は私たちの頭のなかにいやというほど染み付いています。しかも、もっとうまく、もっと上手にです。そうでないとダメ人間の烙印を押されます。

 ところが人は「いるだけでいいんだよ」という言葉を聞くとホッとするから不思議です。辛いとき、心配しているときほど、この言葉は特効薬のように私たちの心に染み入るでしよう。しかし今の世の中はこの言葉を振り捨ててしまったかのようです。

 ひとりの青年が言いました。「小さいときから親はいつも僕に、勉強しろ、頑張れと言い続けてきた。僕はその言葉に忠実であろうとした。でももうくたびれた。もし『お前がいるだけでいいんだよ』と言ってくれたら、僕はこうはならなかっただろう」。かなり強烈な印象でこの言葉を聞いたことを思い出します。

 社会が求める「頑張れ」、「努力せよ」という言葉は、人に病理性を与えこそすれ安心感を与えることはないということを、あたかも証明しているかのようなこの青年の言葉でした。「いるだけでよい」という言葉が人に安心感を与える言葉であるということは、とても大切なことです。よくよく考えてみれば、この言葉は、「いること」つまり存在そのものを肯定する言葉であることが分かります。

現代社会の病理性
 現代社会を支える科学文明は、物事が「存在する」理由に対して、関心を払ってはきませんでした。なぜ宇宙が存在するのか、なぜ地球がそこにあるのか、ひいてはなぜ私という人間が存在するのか、その間に答を持たないままこの社会は発展してきました。小さな子どもが、お母さんに聞きます「ねぇ、なぜお月さまはあるの」。「バカね、そんなことを聞くんじゃないの。あるからあるの」。存在理由を尋ねる私たちの問いはいつもそういう言葉ではね返されてきました。

 存在の理由など問うのは無意味なこと、それよりなにかをする行為のほうが大切、しかも、より有益に、より業績をあげるようになにかを「する」、それが私たちの価値観として定着しています。

 でもどうなのでしょう。「なにかしなきゃ、でもできない」、そのギャップを埋めようと懸命に頑張れば頑張るほど、心も体もボロボロになっていく人たちがどれほど多いことか。ボロボロになるのは、「頑張れ」、「勉強しなさい」という世の中の言葉に忠実であろうとして、わが身に得た結果です。世の中はその言葉を次第に強く要求してきます。現代社会のなかで人が病理性を抱え込むときは、そのどこかに「頑張れ」、「努力しなさい」にまじめに応じようとして応じきれなかった結果を含んでいるといって構わないでしよう。

 考えてみれば、人間の歴史や文化はすべて人がなにをしたか、しなかったかの記録の蓄積です。そしてよくできたことには賞賛の声を浴びせ、失敗にたいしては非難こそすれ、評価の対象にしてきませんでした。それは「できた、できなかった」、「した、しなかった」で人間を評価する基準がすっかり当たり前になっている証拠です。ですから世の中はなにもしないでただ「そこにいる」だけでは、怠け者、無力、人生の敗残者としてしか評価しません。

 今、私たちはあらためて「した、しなかった」、「できた、できなかった」で人間を評価する前に、人は誰であれ、「あなたがいるだけでよいのだ」という言葉を聞くと一番安心するということにあらためて注目すべきです。 どれほど頑張ってもできない人がいるでしょう。生まれた時から「いる」だけで生きることを余儀なくされた人だっているはずです。そうした人こそ「いる」だけの世界が肯定されねばなりません。

クリスチャン・メンタル・フレンドとは

 CMCCでは、援助者の立場を「友」(クリスチャン・メンタル・フレンド)という言葉で集約してきました。この「友」という言葉に「できる」人が「できない」人に、なにかを「してあげる」ことではないという意味をもたせています。

 「友」とは、「する」ことより「いる」を優先して社会に生きざるを得ない人々のために「共にいる」ことを目指した働きを表わす言葉です。「友」は援助を必要とする人たちのために、ことさら専門的知識と技術をもって「なにかしてあげる」ということはありません。「友」は「共にいる」ことを通して、安心して生きることができる世界を相手と共同して創造することを目的とします。もちろんそこには具体的な手段が援用されることはいうまでもありません。そのための基本的な知織や技術は必要です。しかしその適用を最終目的としていないのです。

 「友」の働きには援助の知識、技術以上のことが要求されます。「いる」ということは、そのままじっとしていることではないからです。「いる」ことは、生きていることに他なりません。生きることは形を変えます。形を変えるとは、どのような生き方もあり得るということです。

 どのような生き方がそこにあろうと、「友」が「共にいる」ためには、自らの生き方を「共にいること」ができるように提示しなければなりません。逆に言えば、「友」であろうとすれば、相手から生き方が問われるということでもあります。そうなれば援助の知識と技術の熟練度というより、生きることの成熟度が「友」であるための最終課題になるといって良いでしょう。それはまた「友」にとって尽きることのない学びの目標でもあります。