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三重CMCCの働きを通して
三重CMCC副理事長・阿漕教会牧師

            
加 藤 幹 夫

  三重CMCCの相談電話が開始されて2年が過ぎました。一つの地方都市においてこのような活動が開始され、続けられていること は、自分自身も驚きを持っています。そこには各教会の協力、多くの専門家やクリスチャン・メンタル・フレンド(以下CMFと略) をはじめとするボランティアの方々、賛助会員の方々の協力があるからこそと感じております。

 しかしながら、まだ、2年とはいえ、いろいろな問題が出始めていることも確かなことであります。その中でも、一番気をつけてい ることは、「この活動がキリストの福音に立っている」という原点を見失わないようにするということです。

 近年、精神医学やカウンセリング理論の成果は大きく、その技術の向上も著しいものがあるように思います。そのような時代の中で、 キリスト者として心病む方々と接する者にとっては、一つの誘惑に陥りやすいのです。それは「この苦しんでいる人を助けてあげたい」 という気持ちから生まれてきます。「助けてあげたい」、「この私が助けなければ」となって行く時、必死になって理論を学び、これなら と自信を持って行きます。また、これが一つの成果を残すとなるとますます自信を持つことになり、さらに、それが「私はキリスト教 の愛の精神でやっている」と思ってしまうから話がややこしくなってしまうのです。

 三重CMCCの相談電話活動においては、月に−一度、ミーティングの時を持っています。そこで、よく話が出るのが、「自分の電話の応 対がこれで良いのか不安だ」ということです。これは、何度も同じ人から相談を受けているが、少しも改善の兆しが見えないとか、途中 で相談が打ち切られてしまうという時に不安を覚えるのです。「本当にこれでいいのか?」そのような疑問が大きくなってくるのです。 確かに技術の向上を求めていくことは大切なことであります。しかし、どんなに技術を習得したとしても、完全な応答をすることはで きないということも同時に知っておかなくてはならないことでありましょう。ここに誘惑があると思うのです。

 キリストの弟子たちに悪霊を追い出して欲しいと願ったが、それができなかったという出来事が聖書に記されています。キリストは 悪霊を追い出した後に、お前たちは信仰がないから追い出せなかった(マタイ17:20、ルカ9:41)とお話になりました。マルコでは祈り がたりないから…(マルコ9:29)とあります。
「信仰がない」「祈りが足りない」と言われると私たちは思うかもしれません。

 「私は、必死にこの苦しんでいる人のために祈っているし、信仰だって持っている‥。」ここには、まず始めに「私が望んでいること」 があります。「私の望みが実現するために祈り、信じていることが信仰だ」と思い、「キリスト教の愛の業だ」と思っているのです。しかし、 問題は、「何を祈っているのか、何を信じているのか」なのです。治してあげたいという熱意や方法論だけでは真実の解決にはならない のです。私たちは永遠の命と関わっています。人生の終わりまでの快適さを追求し、関わっでいるのではないのです。

 キリストが弟子たちにここでお伝えになりたかったこととは、「あなたは、永遠の命を持つている主を信じているか。あなたは、主を 心から信頼し、主を絶対者として祈りあがめているか」ということなのです。この言葉を違う視点から受け取って見るならば、「私は何 もできない。一人の人を救うこともできない。人にはできないが、主よ!あなたならおできになります」と告白することなのです。この 告白にこそ、主の御業が働くのです。

 CMFとしての働きをする上で、最も知っておかなくはならないことは、この業が自分自身の業として行われているのではないとい うことです。キリストの愛の業だと思ってしているうちに、自分がキリストによって赦され、支えられていることを忘れ、技術を身に つけるごとに、自分の外にキリストを追い出していることに気がつかないのです。しかもそれが、「この奉仕はキリストのためにやって いる」と思ってしまうから困るのです。
 キリストと共に生きるとは、キリストが大きくなることであり、自分は小さくなることです。「心病む方々の友となる」という奉仕の 業をする度ごとに、私たちが感じることは、ただ自分の無力さ、人を救うことができない自分を発見することなのかもしれません。だ からこそ主の赦しの中で生きることをいつも覚えて行くのであります。

 CMCCの活動において、携わる一人一人が、主の前に自分の罪と弱さを知りつつ、なお主の赦しによって歩むことであるとするな ら、この活動は一つの教会(信仰共同体)としての働きがあることになります。しかし、この教会的な業はすぐ誘惑に襲われて、キリ、 スト抜きの業になってしまい、キリストが示してくださった福音よりも自分の思いが絶対であるかのように思ってしまうのです。本来、 「聴く」ということを一番大切にしているはずの奉仕者が、それを見失ってしまうのです。電話の向こうにある声は聴くが、主の御言葉 や仲間の意見を聴かないというのはおかしなことでありましょう。「自分は…」という思いから、「主は、この場合どうされるのか? 相手はどのような思いを持ってこのような意見を言うのか?」と思いを切り替え、じっくりと話し合ってみることが必要なのであります。

 三重CMCCの相談電話開始の日のことを今でも思い出します。私が担当牧師として相談電話室に入った時、新しくCMFとなり、 この日、当番となられたお二人の姿がありました。何もかもが初めての経験です。「今まで受けてきた講座のこともすっかり忘れてしま つた、どうしよう」と不安がいっぱいになっておられました。私が入ると、「祈って頂けますか?」と言われ、開始十分前に三人で祈り ました。「主よ!何もできない私たちを支えてください。あなたの憐れみによって私たちの奉仕の業を支えてください。」

 はじめての相談電話、それは本当に、しどろもどろの対応でありました。しかし、電話の向こうから「聴いてくださってありがとう」 という声をいただき、三人がほっとしたことを思い出します。その気持ちをいつまでも忘れないでこれからも活動を続けて行きたいと 願っています。