25

聖書に見られる心理的な学び
登校拒否文化医学研究所所長・臨床心理士

            
高 橋 良 臣

   聖書に書かれている記述はクリスチャンにとっては宝です。キリスト教精神でカウンセリングをしている私にも大切な宝です。一 般的に、多くのカウンセラーはどちらかというとカウンセリングマインドやカウンセリング技法に、カウンセラーとして依ってたつ根 拠を求めています。ロジャースやユングのカウンセリングマインド、分析療法とか来談者中心療法とか芸術療法とか家族療法など、さ まざまな技法がカウンセラーに影響を与えています。私にとってはそれらの精神や技法も大切ですが、聖書の記述によって多くの示唆 を与えられていると認識しています。

★キリストとペテロ★
 私はキリストとペテロの関係に感動を覚えます。十字架にかけられる前後のキリストとのやり取りに注目します。ユダヤ人たちから 「お前はキリストと一緒にいた男だろう」と詰め寄られると、ペテロはキリストを「知らない」と三回も否定します。キリストはそんなペ テロを赦しています。私は人間としてどんなに信頼関係がある相手であっても、裏切りたくはないのですが、ペテロのように裏切る可 能性はいつでもあります。しかし、立場がかわり自分を裏切った相手を赦すことが出来るでしょうか。とてもできそうもありません。
 キリストは人間の本質をご存知です。キリストご自身は、人が罪人であるということを知っているから、裏切りもありえると知って います。しかし、私はそのような寛容な気持ちになれるのでしょうか。自信がありません。だから常に聖書の言葉に関心を向けています。 キリストは自分を裏切るペテロと、大伝道者になるペテロと、両者共をペテロの人間性の中に見ています。どうかすると私はその人の 本質を一つの部分に求めて「ペテロは裏切り者で信用できない」という結論を出してしまいます。キリストのように「裏切り者でもある し、伝道する者でもある」というまなざしで見ていくことはなかなかできません。
 カウンセリング中に、同じ一人の人間の言動によりさまざまな姿を発見します。そのすべてがその人なのですが、どうかするとカウ ンセラーはその人の本質的な部分は何かという方向へ関心を持ってしまいます。大きな誤りを犯してしまいます。不登校の子どもはこ ういう子どもで、その親はそのような人であると。人間理解を性急に求めてしまい、実態から離れた誤解をしてしまいます。

★敵か味方か★
 相談にこられた方から「どれが正しいやり方でしょうか」という質問を受ける場合があります。たとえば、食事を家族と一緒に食べな い子供に対して「食事を作っておいたほうがよいでしょうか。作らないはうがよいでしょうか」という質問をされます。そのような質 問をする根拠として、「間違いは犯したくない」という気持ちがあります。また「効果的な方法かどうかを知りたい」のです。自分の 気持ちはどうしたいのかが抜けています。
 本当はどちらでもよいのです。実行して誤りがあれば修正する勇気を持てばよいのです。しかし、子供のことで混乱している親にとっ ては「本当にどうしたらいいのか分からない状態に陥っている」のです。「正しい答えは一つである」と確信している人も多くいます。 そんな時に聖書のキリストの言葉を思い出します。「私に敵対しない者は私の味方である」という内容と「私に味方しないものは私の敵 である」という内容です。どちらが正しいのでしょうか。どちらも正しいのです。答えは必ずしも一つとは限りません。状況の中から その意味が見えてきます。それがその時の答えです。
 私たちは日本の教育の中で「正しい答えは一つだけである」かのような教育を受けてきました。キリストの発言の数々はそのような 偏りや思い込みを修正してくれます。

★自分自身が分からない★
来談する人の中には「本当の自分が分かりません」という悩みを持ってくる人もいます。「ある時はマンガ家になりたいと思うし、別 の時にはタレントになりたいと思うし、いろいろな研究もしたい。本当は何をやりたいのか分からなくなりました」といいます。私た ちは自分自身が何者であるかを求めてさ迷います。さ迷う過程で、あれかこれかの悩みは誰もが経験した悩みです。
 パウロが言うには「本当は正しいことをしたい自分なのに、やっていることは正しくないことをしている自分」なのです。冷静な人 はそういう自分に気付いて愕然とし、悩みます。「いったい自分は何者なのだ」と苦悩します。私たちの心の中では、善悪が入り交ざっ て流動しているのです。いつも、いいことをしたいという自分と、そのようではない自分という自覚とがせめぎ合って葛藤を繰り返し ているのです。
 一つだけの本質的な自分を捜し求めたいという願いは誰にもあります。しかし、たくさんの自分自身の思いに葛藤を繰り返していて、 本当の自分探しに難渋をしています。自分の本質を求めたいという気持ちと、たくさんの自分に気付くという現実とは、お互いになん ら矛盾するものではないのです。私たちがキリストに求めるのは「そういう不安定な自分ですが、いつも寄り添い、私の隣にいてくだ さい」という願いです。