21

メンタル・フレンドと心病む人々
―メンタル・フレンドの姿勢について考える―
東洋英和女学院大学教授
北千住旭クリニック院長  
CMCC副理事長   
平山 正実

 心病む人々を治療する人を英語でセラピスト(therapist)と言います。この言葉の語源はギリシア語のテラペイアに由来すると言います。この語の動詞形は「サーヴイス」「世話をする」「看病する」「仕える」「奉仕する」といった意味を有しています。また、この言葉の同義語ラトレウォは、主人に仕えるという意味だけでなく、神を礼拝するといった意味があります。つまり、治療する場は、「奉仕」や「看病」や「世話」する場であると同時に「礼拝」の場であるというのです。われわれがイメージする礼拝行為とは、教会のような限られた宗教空間において行われるものと考えがちです。しかし、治療(therapy)という言葉には、隣人に奉仕し、仕え、看病し、世話をすることだけでなく、そうした行為を日常生活の中で実践することこそが、真の礼拝であって、そのような人間の営為全体が、治療や癒しと密接な関わりあいがあるのだというのが聖書のメッセージであるように思うのです。われわれが、心病む人々と関わる場合、その関わる場が礼拝の場であるという意識が徹底されるならば、面接やカウンセリングを行う姿勢も随分変わってくるのではないでしょうか。

 ところで、ユダヤ・キリスト教における礼拝の最も原始的な形態は犠牲にあると言われています(新聖書辞典参照)。この犠牲には大別すると二つの形態に分けられます。

 第一は、人間の側が、自分の利益を得ることを目的として犠牲を献げることです。この種の犠牲は、人間の欲望を満たすためのもので、その行為を行う背後には人間の方が神を利用したり、取り引きをしたりして、自分の願望を充足させようとする意志が働いているように思うのです。神はこのような犠牲は、ふさわしくないものとして退けられました。

 第二の犠牲の形態は、罪赦され救われ、神に祝福されたことに対する人間の側の神への感謝と喜びをなんらかの形に表すため、つまり、神への感謝という形での応答として犠牲を献げるというあり方です。このような献げ物を、神は喜んで受け取りたまいました。

 このような二種の犠牲の形態は、奉仕の場といわれる面接や治療を行う際に、治療者の態度に反映します。この点をもう少し具体的に理解するために聖書から学びを深めてみましょう。

 創世紀4章2節〜8節には、有名なカインとアベルの物語が記されています。カインとは、「鍛冶工」「工人」を意味し、何かを産みだし、形造ることを象徴的に言い表したものと言われます。他方アベルは、「息」とか「空虚」などという意味です。カインは「地を耕す者」であり、アベルは「牧者」でした。二人は、神に献げ物をしたのですが、神はアベルの献げ物を喜んで受け人れられましたが、カインの献げ物は拒まれました。なぜ筆者がここで、あえて、自ら作り出したものを献げたカインと、心を空しくし、目に見えないもの(息)を信じ、その信仰そのものを献げ物としたアベルとを対比させたのかといいますと、この物語の中にCMCCのメンタル・フレンドとしてわきまえておかなければならない大切な教訓が含まれていると思ったからです。

 一般的に、優れた治療者になるためには、知識と技術と態度、この三つの要素を兼ね備えていることが大切であると考えられています。この三つの要素の内、知識や技術は、目に見えるものです。丁度職人が技術を身につけ、学者が知識を蓄えるように、人間の側の努力によって獲得するものであります。このような自分の力(知識・技術)を献げ物とすることは、どちらかというとカイン的な犠牲の献げ方ではないでしょうか。他方、奉仕する、世話をする、看護する、配慮するといった行動は、どちらかというとその人の態度に関わる事柄です。こうした態度は、神に対する信仰によって産まれてくるものだと思うのです。そして、神によって罪赦され、その応答として感謝と喜びをもって奉仕する態度こそ、アベル的な犠牲の献げ方であると考えます。

 CMCCのメンタル・フレンドとして、心病む人々に対して関わろうとするとき、これまで述べてきたカイン的態度よりもアベル的態度を優先させるべきではないかと思うのです。

 最後に、われわれ主に贖われた者が、心病む人々に関わる意味について考えてみたいと思います。

 レビ記には実に不思議な言葉が記されています。

 「アロンは二匹の雄山羊についてくじを引き、一匹を主のもの、他の一匹をアザゼルのものと決める。アロンはくじで主のものに決まった雄山羊を贖罪の献げ物に用いる。くじでアザゼルのものに決まった雄山羊は、生きたまま主の御前に留めおき、贖いの儀式を行い、荒れ野のアザゼルのもとへ追いやるためのものとする。」(レビ記16章8節〜10節、その他同章20節〜22節も参照)

 ここに出てくるアザゼルは、荒れ野に住まう汚れた霊の力、あるいは悪霊の働く場所をさすと.言われています。ユダヤ社会においては、そうした力や場所に、贖罪の山羊を献げるという供犠の習慣があったようです。アザゼルは、急な断崖の地であるという説があり、山羊はそこから投げ落とされて死んだといいます(カラー版聖書大辞典参照)。アザゼルは、ゲラサの地に出没する悪霊、あるいは汚れた霊(マタイによる福音書8章28節以下)を思い起こさせます。

 われわれは、さきに心病む人々に奉仕することは、主に贖われたことへの感謝と喜びを具現化するための献げ物であり、その行為自体が礼拝であると言いました。

 たしかに、その場は“荒地”で“危険”なところかもしれません。しかし、その“荒地”こそが喜びと感謝の場、奉仕の場、礼拝の場であるという信仰が与えられるよう祈ってゆきたいと思います。