21世紀のCMCCに向けて
CMCC理事長・精神科医 中村陸郎

 私事で恐縮ですが、精神科の医師を目指して精神科の診療に携わり始めてから約40年が経過しました。今もなお、精神科医として苦渋の歩みを続けている自分を見出して、我ながら愚かなことをしていると思うことが時々あります。もっとも“苦渋の歩み”は必ずしも正確ではないかもしれません。何故なら、精神科医として、嬉しい、楽しい思い出も沢山あるからです。いずれにせよ、ここで私が述べたかったのは、精神科における治療がまだまだ未完成であり、治癒することが困難な方達が多いということです。若い頃は、その困難さがそれを克服する意欲をかきたてたりもしたことでした。しかし、40年近く精神科の臨床に従事して来て、なんとその進歩が遅々としていることかと思わず嘆きを洩らしたくなることがあります。 

病気の治らない辛さは、当の患者さん達にとって一層切実なものがあるでしょう。それはど遠くない過去において、かつては結核や癩病(ハンセン氏病)が不治の病とされ、治療が大変困難な時代があったことが思い起こされます。そのような時代には、結核や癩病の療養所では、キリスト教の伝道が盛んに行われ、多くの患者が入信し、信仰によって平安を与えられ、生きる希望と喜びを見出したのでした。精神病院におけるキリスト教の伝道が日本でどの程度行われているか寡聞にして良くは知りませんが、私の知る限りでは、陳茂棠先生が都立松沢病院で長年聖書研究会を主宰されて、患者さん達に福音を伝えて来られたのを除いては、非常に少ないのではないでしょうか。陳茂棠先生の静かな、しかし忍耐強い松沢病院での伝道は『精神病院伝道50年をすぎて』と題する一冊の本にまとめられて昨年出版されています。

 私は治療の困難さを前にして、途方にくれ、意気消沈することがあります。仕事が忙がしくて、疲れている時などは特にそうです。そのような時に、大切な事を忘れていたことに気付かされることがあります。「祈り」です。キリスト者にとって、祈ることが出来るということは、何という大きな恩恵でありましようか。そして、次のような聖書の言葉に出逢い、慰めと励ましを与えられます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、
わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイによる福音書11章28〜30節)

「わたしに聞け、ヤコプの家よ、
イスラエルの家の残りの者よ、共に。
あなたたちは生まれた時から負われ、
胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる
日まで、白髪になるまで背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。」
(イザヤ書46章3〜4節)

祈りの中で、平安に心が満たされ、不安、恐怖、思い煩い、失望などから解放されて、心が冷静さを取り戻します。そして「主よ、どうぞこの人を癒して下さい」との祈りへと導かれ、その中で治療の取り組みへの新しい勇気と希望が湧いて来ます。このような体験を書いたのは、CMCCの活動の中心的な担い手であるCMFの方々の上に思を馳せてのことです。CMFの方達も、事柄の内容は異にしていても、電話相談や面接の中で、同様の体験をなさって居られるのではないかと思うのです。

 1991年5月6日に発足したCMCCですが、今日まで多くの方々の祈りとご支援、ご協力、何よりもCMFの方達の献身的な活動、事務局の方々のご努力などに支えられて、少しずつ発展しながら、その活動を続けて来られたことは感謝のほかありません。本年6月には特定非営利活動法人(NPO法人)として認証され、新しい歩みを始めることになりました。NPO法人化のための手続の中で、問題となったのは、「キリスト教」という名称と、定款第1章第3条(目的)と設立趣意書の中の「超教派的なキリスト教の精神に基づき」の箇所でした。NPO法人で“主たる目的”としては制限されている宗教活動に抵触するとして当局(東京都)が難色を示したのです。話し合いの結果、紆余曲折はありましたが、当局側もCMCCの活動の実態については良く理解して下さり、名称はそのままで良いことになり、定款と設立趣意書を部分的に若干訂正することで無事に認証されることになりました。いずれにせよ、NPO法人になったからといって、CMCCが今後も教派を超えたエキュメニカルな立場に立ち、キリスト教の信仰に基づいて心病める人々に奉仕するボランティア活動であり続けることにおいては、いささかの変更もありません。イエス・キリストを信ずる信仰に固く立つ者として、主にある一致と連帯を保ちつつ、互いに慰め、励まし、助け合いつつ、CMCCの活動が続けられていくことを願っております。 

一方で、CMCCの利用者に関しては、広く門戸を開放すべきであり、キリスト教の信者であるかどうかに関係なく、すべての心病める人々を受け入れていくべきでしょう。勿論そうは言っても、この9年余の間の経験から学んだように、専門家でない素人としての相談活動の限界を十分にわきまえて置く必要もあるでしょう。先日行われた『第41回神学と精神医学懇話会』で講演された、ドイツのハイデルベルク大学実践神学の教授クリスティアン・メラー氏が強調されたことの一つに、キリスト者に与えられている「霊の賜物(カリスマ)」があります。素人であるが故の豊かな感受性や繊細な感覚を生かしながら、祈りにおいて霊の賜物が与えられることを求めつつ、活動が続けられるならば、豊かな実りが生み出されて行くことでしょう。21世紀を迎え、CMCCの前途に主の祝福が豊かにありますようにと祈ります。