CMFとは
―CMCCがめざすもの―

理事・CMF 熊澤喜久子


はじめに

「心病む人々の友となろう」という活動の目標をかかげて、1991年5月に発足したCMCCは、エキュメニカル(超教派)なクリスチャン・ボランティアの運動体である。

 ボランティアは、もとより自発的であり、無償性であることはいうまでもないが、CMCCの最も中心をなす「キリストに仕え、キリストの働きに参与させで頂く」ということがその中心にあることを強調したい。それは『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:40)というキリストの御言葉が示しているとおりである。

 ボランティアであるCMF(クリスチヤン・メンタル・フレンド)にとって、運動体が目指している方針にそって行動することは勿論のことであり、働き自身に信仰的な判断と責任意識が求められているといえよう。

 来春10年目を歩み出そうとしているCMCCにとって、その中心の働きを担っているCMFの望ましい姿とは何なのか、今この節目の時にしばし止まり、その意味、あるべき望ましい姿を再確認して、次のステップへと力強く歩んでいきたいと思う。

CMFとは何か

 神学者P.ティリッヒは、聞き手とユーザーとの間に、傾聴・応答・変容を実現する愛の関係は、情緒や友愛といったエロス的愛ではなく、ギリシャ語の<アガペ>、あるいはラテン語の<カリタス>の愛、すなわち苦境、醜悪、罪障のさなかに分け入って、それを浄化、高揚する愛が決定的に重要であり、話し手の声なき声に鋭敏に耳を傾け、自発的に応答する「傾聴する愛」(listening love)こそ基本原理でなければならないといっていることを嶋田啓一教授は紹介し、自分もティリッヒに傾倒していることを認めている。又、アメリカの精神科医キュープラー・ロスも、1992年日本で行った講演の中で、無条件で無限な愛が何にもましで重要であることを強調している。すなわち、ティリッヒもロスも報いを望まない愛、仕える愛−アガペ−によって生じる関係が信頼関係であり、それが最も大切であることを述べている。

 いいかえれば、○○の<ために>何かをしてあげる、ではなく、○○と<ともに>生きようということであり、ここにCMFのCが決定的な意味をもつことになる。ではCMFとして、具体的にどのように考えて活動しているのであろうか。以下に記してみたい。

 ・ユーザーを全人的な存在としてとらえ、その持つ力や可能性を信じ、
   いつも適当な距離をもちながら待つことができる。
 ・ユーザーにとって何が必要かをその時に応じて判断できる。
 ・ユーザーのできることをサポートしていく。
 ・ユーザーの心の動きに敏感である。
 ・自分の限界を知り、できないことはできないと言える。
 ・相手が何を望んでいるかを察知できる。
 ・謙虚な心で人の話が聞ける。
 ・CMFとして生かされていることが自分の喜びとなっているか。
 ・人間が好きである。
 ・F同士が互いに支え合い、協力し合うことができるか。

 以上思いつくままに記してみた。病をもったままでも意味ある人生を歩んでいけるようにと願いつつ、ユーザーとのかかわりを通してCMFも沢山の気づきや豊かなものを頂いている。ここにCMFとしての喜びを感じている。

CMFとして専門性を確立できるか

 CMFには常に学ぶこと、研修を受けることが課題とされている。病気についての知識もある程度もっていなくてはならない。しかし、CMFたちがどんなに勉強しても精神科医になることはできないし、その代わりをすることもできない。又、いくらセラピーを身につけても、セラピストやカウンセラーであってはならない。CMFまあくまでも<ともに>生きることを目指している存在であり、癒す(cure)ことを目指すのではなく、相手を配慮(care)すること、すなわち、配慮の心をどれだけ提供しつつ<ともに>歩む存在であるかが求められている。したがって、どんなに学びを重ね、知識を身につけても、それはよりよいCMFになるためであり、強者の集団になってはならない。CMFは訓練された素人であり、現代の社会の最も小さい者と共におられるキリストにお仕えするのである。このようなCMFに専門性といえるものがあるといえるであろうか。ないなら今後専門性を構築することができるであろうか。

 会報11号の「一精神科医がCMCCに望むこと」の文中に、『CMFの方たちがただ善意からだけでなく、養成された、必要な知識を持ったボランティアであるということは、特に精神障害者の方々を援助するためには、とても大切なことです。けれども同時に、CMCCには、疾患の治療を担う「専門家」ではないからこそできること、知識や技術だけでは成し得ないことをしていただければ、と私は願っています』 と書かれているが、まさしく、専門家でないからこそできること、CMFだからこそできることがあるのではないであろうか。そこにCMFの専門性を構築できないであろうか。診療に追われ、忙しくてしたくてもできないで心を残している精神科医のそのすき間を、忍耐強く、思いやりと共感の心で耳を傾けて埋めることができるのではなかろうか。

CMFの今後に求められること

 上述したように、CMFには学ぶこと研修することがいつも課題とされている。夏冬の研修会、グループ研修などとその折が提供されており、その機会を大切にしている。しかし一方で、熱心に学べば学ぶほどそれを使ってみたくなる誘惑のあることも事実である。そこには<してあげる者>と<してもらう者>という関係が生まれ、決してよいCMFにはなりえないのである。また、CMFの横のつながりもぎくしゃくとしたものになる恐れをはらんでいる。CMFの働きの足を引っ張って、ボランティア運動体であることと矛盾する組織体であってはならないのである。「心病む人々の友となる」ということはどういうことなのか、常に原点に戻りつつ、キリストの働きに参与させて頂く光栄を担っていきたい。