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第二十二回 十月・奈良の藍生だより 〜普通の一日〜

写真・ 文:島田 勝
Shimada Masaru: 昭和38年12月14日生まれ、即ち今年数えで42歳の厄。 「華宵好みの君もゆく…」と唱われた頃の面影はとうに無く、"小公子"のようだったのが"小公吏"となって身過ぎ世過ぎしている。

 朝は、五時に起きます。
 仕度をして家を出るのが六時過ぎ、これは数年来変わりません。
 最寄り駅まで十分ばかり、正面に二上山を仰ぎながら歩きます。

 二上山は日の沈む山です。
 私には日の出より日の入りの方がより親しく感じられます。
 日が沈むときの、紫掛かった金色で何も見えなくなってしまう様を、生まれてから今日まで数え切れないほどに見てきたのだから当然でしょう。
 『往生要集』を著し、我が国における浄土思想の嚆矢となった恵心僧都は、私の家から一キロほど北でお生まれになりました。
 その場所は、今では阿日寺という寺となっています。
 勿体ない物言いになりますが、恵心僧都と私は、千年の時を隔てて原体験を共有していると言えなくもないのです。
 恵心僧都が浄土思想に行き着いたのも宜なるかなと思われるでしょう。
 それはさておき、近鉄当麻寺駅に着きました。
 ここから電車に乗り、奈良まで途中に二度乗換えます。
 久米仙人の久米寺も、梅川忠兵衛の新ノ口も、世阿弥の本貫である結崎も、薬師寺も唐招提寺も、すべて車窓の覗きからくり…

水澄んでひと懐かしき静寂かな      勝

 近鉄奈良駅の改札を出て東へ五分ほど歩けば職場に到着です。
 私より早く来ているのは一人だけ、いつも同じ人です。
 始業が午前八時三十分ですから、一時間ほど早く来ていることになるのですが、彼も私も、電話も鳴らなければ来客の応対も必要ないその一時間を非常に大事にしています。
 集中してひと仕事了えるには丁度頃合いの時間なのです。
 でも、今日はちょっと外の景色を楽しみましょう。


(この写真はクリックすると拡大表示されます。)

 職場の窓から見える興福寺の五重塔です。
 少し左手に目を遣って、奈良公園の森の彼方に見えている瓦屋根が奈良ホテルですが、「全国藍生のつどい」を奈良で開催させていただいてから早や三年が過ぎてしまいました。


 ここから、全国大会の一日目の句会場となった元興寺極楽坊を見ることはできません。
 東側の窓から外を見てみましょう。


 東大寺大仏殿が見えます。
 東大寺といえば、以前、文化財保存課に勤務していた頃のこと、仕事でお訪ねするに当たって、事前にご都合をお窺いすべく寺務所へ電話をしましたところ『“こうけいき”で忙しいから明日にして欲しい。』旨のお返事でした。
『好景気で忙しいとは…、この不景気に流石は東大寺さんですね。』と私が言ったところ、『いえいえ、公慶上人のご命日の法要で忙しいのです。』と窘められたのでした。
 公慶上人とは、松永久秀によって焼かれた大仏殿を再建なさった江戸時代の高僧で、今見る大仏殿はこのとき再建されたものです。
 私が『ああ、今日は十月五日ですね。公慶忌でしたね。』と笑いを堪えながら言葉を返したのを憶えていますから、あれは何年か前のちょうど今頃だったのですね。
 そんなことを思い出しているうちに、始業時間が迫ってきました。
 そろそろ人も増えてくる頃です。
 勤務時間中は、外の景色を楽しむゆとりなど全く無いのです。

談合情報不渡情報芋嵐      勝


 一日の過ぎるのがなんと速いことか。

 あっという間に、午後五時を過ぎ、間もなく終業のチャイムが鳴りますが、ほとんど誰も帰りません。
 残業しているのですが、公務員など暇な職業だと思っている人にはご理解いただけないでしょう。

(この写真はクリックすると拡大表示されます)

 日の沈むのが早くなりました。
 かつて、志賀直哉が「名画の残欠が美しいように美しい」と言った景色が闇に呑み込まれていきます。
 夕方六時になると聞こえてくる鐘の音は、興福寺南円堂横の鐘楼で撞かれているものです。
 それとともに“きゅーん”“きゅーん”と鹿の鳴く声が、私の居る六階まで聞こえてきます。

鹿啼いて浄暗奈良を覆ひけり      勝


 鹿の声が、これほどまでに響いてくるのはこの季節だけ、なるほど「鹿」は秋の季語なのだと腑に落ちます。
 そろそろ七時、いつもより少し早いのですが今日はこの辺で切り上げることにしましょう。

後の月銀の佛に金の箔      勝


 当麻寺駅まで帰ってきたらすっかり暗くなっていました。
 これから家まで東へ十分ほど、街灯もない當麻の闇を歩きます。
 帰宅したら午後八時三十分でした。

 

子供達がまだ起きている時間に帰ることができた分だけ、今日はよい一日だったと言っていいでしょう。
月満ちて星の林に子を隠す      勝

 



写真・文:(c)島田 勝


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