第7回 七月・広島、瀬戸内の藍生だより
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島は360度、開かれている。 鳥になって空から見れば、すぐにわかる。
恩恵もまずさも、あまりに日常的なるものに対しては、感覚が麻痺している。
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石仏 (登山道の随所に) |
大三島と来島大橋を望む、四国方面(大崎上島「神峰山」展望台より) |
誰もいない海岸。大きく潮が引いて長い藻のおびただしく露わとなった浜は磯の匂いに満ちている。裸足になる。午後の砂は温かい。曇った空から薄日が灰色の波間に絶え間なくこぼれ落ちる。水にふれてみる。 つ・め・た・い。眼を閉じる。誰もいない。静か。
灰色の海(長島) |
緑の海というと、知らない人は信じない顔つきをする。が、見ればわかるとしか言いようがない。島と島とを結ぶ海上25mの橋の上。いつぞや誰かがここから飛び降りたそうな。きちんと靴を脱ぎ揃えて。飛ぶとき、その眼には何が見えたのだろう。また、何が見えなかったのだろう。 (写真ではわかりにくいが、目に入る海は深い緑色)
緑の海 |
夕焼けというだけで身の奥に痺れる感覚がある。季節を問わず場所を問わず、夕焼けはわたしのこころを掴んで放さない。
夕日(撮影は峠哲夫氏) |
小さな蓮の池がある。十数年、毎日のようにそばを通っているのに気が付いたのはそれほど昔のことではない。そのくらい日常とは視野をせまく暗くする。まだ枯れ蓮の残骸がおびただしい池の表に、ある朝、ぽかりと小さな丸い葉を認めたと思うやいなやぐんぐんと成長する。この蓮池に会ってから、わたしは蓮を詠むようになった。俳句と出会わなければ、いまも気づいていないだろうか。蓮にもそのこころにも。 人間の生ひ立ちとろし蓮の花 |
石垣に手を触れてみる。歳月を経てなお硬くしっとりしている。あまた畳まれた沈黙のどれひとつとして解き明かすことは叶わない。あらゆる思い込みは流れ去るままに。城郭のような石垣の上に建っているのは無人の寺、満舟寺。春は桜、松山の俳人栗田樗堂の墓がある。狭い路地伝いにゆけば江戸時代の町並みに続く。この時間は観光客の賑わいもなくてひっそりしている。潮待ち港、御手洗。長濱要悟はここの生え抜き。
石垣(大崎下島御手洗 撮影は関藤一暁氏) |
家を出て小道のすぐその先に堀が見える。停泊している船は漁船ではなく農船である。近隣の島々へ自家用船で渡ってみかんの栽培をする。過去にはここにぎっしりと繋がれていたという。黄金の島と呼ばれ、みかん景気に沸いていたころには…。
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俳句、文中に撮影者名のない写真、文:(c)青天子 |