![]() (C) Photographs by Joe Honda |
アメリカンドリームへの序曲
日本人として初めて
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日本人として初めてCAN-AMに挑む!!
我が鮒子田 寛が遂にビッグレース出場のチャンスを掴んだ!!
![]() TOP : Hiroshi Fushida Hot at Laguna !! And his MAC'S IT SPECIAL in 1970. ![]() ![]() TOP : The Can-Am King "Denny Hulme and his McLaren M8D ( Leftside)" and the F-1 King " Jackie Stewart and his Chaparral 2J ( Rightside)". (C) Photograph by Joe Honda. |
1970年10月18日、ここラグナセカ( LAGUNA
SECA )スピードウェイにおいて、我が鮒子田 寛はまさに日本人初のCAN-AMシリーズチャレンジに燃えていた。さらにラグナセカは鮒子田にとっては縁起が良い場所だ。6月14日に行なわれたF-Aチャンピオンシップ第4戦ラグナセカにおいてイーグル・プリムスを駆り5位に入賞しているところだからだ。
コースを知り尽くしている今の鮒子田にとって最大の問題はマシンだった。 ここに当時のオートスポーツ誌1970年12月号に掲載されていた「フルムが2度目のチャンピオンに モントレー・カストロールCAN-AM」で鮒子田 寛とMAC'S IT SPECIALについてコメントされているので抜粋引用させて頂くことにする。
![]() TOP : Whatever Happened to The MAC'S IT SPECIAL !! He said, "Why ?!" ![]() TOP : Invade CAN-AM ! MAC'S IT SPECIAL and Hiroshi Fushida. (C) Photographs by Joe Honda. |
我が鮒子田 寛のチャレンジは無謀だったのだろうか?!確かに無謀だと言う人はいるとは思うが果たしてそうと言い切れるだろうか?
ここで私は1人の興味ある1人のドライバーを紹介したい。それは日本にも縁が(!?)ある“ビック・エルフォード”だ。 エルフォードは、1968年から69年まであのポルシェ・ワークスの一員としてジョー・シファートと共にポルシェ908や917の勝利に貢献した実力者だ。さらに1969年、突如チーム・トヨタの助っ人ドライバーとして名乗りを上げ、日本グランプリにあのトヨタ 7で出場したという経歴の持ち主でもあるのだ。 エルフォードは1970年よりポルシェがワークス活動を中止したため“助っ人家業”に徹してレース活動を行なっている。 まずはマニファクチャラーズ・チャンピオンシップレースにはザルツブルグ・チームの一員としてポルシェ917や908をドライブしル・マンなどに参加、また今年からCAN-AMに挑戦し、AVSシャドウ・チーム、チャパラル・カーズなどの助っ人ドライバーとして毎レースマシンを変えチームを変え挑戦している。もちろん、チームからレースごとのスターティング・マネーを得ての出場だ。例えば第8戦ドニーブルックCAN-AMの時などはチャパラルの不参加により当初フォードG7Bで予選を走っていたがマシントラブルで決勝には他チームのマクラーレンM6Bで出場するという離れ業を演じたりしている。 何が言いたいかというと我が鮒子田 寛ももう少し何かが噛み合っていたら鮒子田がエルフォードになっていたかもしれないと言うことだ。ドライバーの腕だけを比べれば鮒子田 寛がエルフォードに劣っているところなどないはずだ。日本グランプリでのトヨタ 7での走行は決してエルフォードが鮒子田より抜きんでていたことは何もなかった。 この“何か”の違いが鮒子田をマックス・スペシャルへ、エルフォードをチャパラルへと分けさせたのではないだろうか・・・。 ![]() TOP : Vic Elford and his SHADOW in 1970. (C) Photograph by Joe Honda. |
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