(C) Photographs by Joe Honda
鮒子田 寛 レーシング・ヒストリー

 アメリカンドリームへの序曲
CAN-AMシリーズへの挑戦

日本人として初めて
"CAN-AMシリーズ"へ挑んだHIROSHI

 
 バリヤーで囲まれたようなSF的な美しい別世界・リバーサイドに来て、アメリカの税金が高いのも無理はないと思った。砂漠のなかにある町だから、少し強い風が吹けば、巻き上げられた砂が降ってきて町中砂だらけになる。それを防ぐため、周辺の広大な砂漠地帯の一面に、人工シャワーで水をまいているのである。
日本人の感覚でこの光景を見れば、“砂漠の開墾→農作物の栽培”という公式が浮かぶはずだ。ところがここリバーサイドでは、シャワーの下にはただ赤茶けた砂の海があるだけ。そして涼しげなシャワーの目的は、単にホコリを防ぐためだとは!
 それはともかく、70年CAN-AMシリーズの最終戦が行なわれるリバーサイド・インターナショナル・レースウェイに集まった32台のマシンの中から、ついに鮒子田君の“マックス・イット・スペシャル”を見つけることは出来なかった。
つい先日彼に会ったとき「エントリーはしているが、ベルトマチック・ミッション(なんとベルトによる遠心クラッチを使用したマシン!!)のパーツが手に入らなくて・・・」と言っていたので、おそらくパーツが間に合わなかったのだろう。
by Joe Honda  
 オートスポーツ1970年12月号 「小切手にキッスするデニ―親分 ロサンゼルス・タイムズ・グランプリ フォト&レポート ジョー・ホンダ」より抜粋引用活用させて頂きました。
 
 日本人として初めてCAN-AMに挑む!!

 我が鮒子田 寛が遂にビッグレース出場のチャンスを掴んだ!!
そのレースとは、1966年より開催されている世界一ビッグなイベントとして有名な「CAN-AM(カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ)」である。CAN-AMシリーズは、当時フォーミュラ1より人気があり、アメリカとカナダのサーキットを中心とした2座席レーシングカー(FIA規約で排気量無制限グループ7に該当するマシン)によるレースであった。
初年度である1966年こそジョン・サーティーズのローラT70MKII にシリーズチャンピオンを譲ったものの翌1967年からはまさにマクラーレンの独占場と化しているが現状だ。
そんなビックマネーなレースに日本人として初めて鮒子田 寛が挑戦しようとしているのだ。
(ちなみに、故 風戸 裕が挑戦したのは翌1971年度シリーズである。)
マクラーレン・チームは、前年1969年シリーズも全11戦中ブルーズ・マクラーレンとデニス・ハルムにより、なんと全戦全勝という金字塔を打ち立てており、チャパラルやローラ、そしてフェラーリなどの巻き返しが今シリーズの焦点となっていたのである。
そんな中、注目を浴びていたのがチャパラル2J(シボレー・エンジンとは別に、スノーモービル・エンジンを装備し、バキューム・システムを採用するウイングを捨てたチャパラル)、オートコーストTi22(チタニウムをマテリアルとした新時代のマシン)、ローラT220(ローラ新開発のマシンで翌年風戸 裕が使用したT222と基本的には同じマシン)、マーチ707(新進マーチが送り込んだ驚くほどワイドトレッドなマシン)、そして我が鮒子田 寛がモントレー・グランプリに初めてエントリーした“マックス・イット・スペシャル(MAC'S IT SPECIAL スノーモービル2サイクル2シリンダーエンジンを前後に2機づつ搭載した4輪駆動マシン)などが注目されたマシンたちであった。


TOP : Hiroshi Fushida Hot at Laguna !!
And his MAC'S IT SPECIAL in 1970.

TOP : The Can-Am King "Denny Hulme and his McLaren M8D ( Leftside)"
and the F-1 King " Jackie Stewart and his Chaparral 2J ( Rightside)".
(C) Photograph by Joe Honda.
 1970年10月18日、ここラグナセカ( LAGUNA SECA )スピードウェイにおいて、我が鮒子田 寛はまさに日本人初のCAN-AMシリーズチャレンジに燃えていた。さらにラグナセカは鮒子田にとっては縁起が良い場所だ。6月14日に行なわれたF-Aチャンピオンシップ第4戦ラグナセカにおいてイーグル・プリムスを駆り5位に入賞しているところだからだ。
コースを知り尽くしている今の鮒子田にとって最大の問題はマシンだった。
ここに当時のオートスポーツ誌1970年12月号に掲載されていた「フルムが2度目のチャンピオンに モントレー・カストロールCAN-AM」で鮒子田 寛とMAC'S IT SPECIALについてコメントされているので抜粋引用させて頂くことにする。
 
鮒子田 寛が日本人初のCAN-AMチャレンジ 
 
 アメリカで武者修業中の鮒子田 寛がようやくチャンスをつかみ、マックス・スペシャルを引っさげて、日本人としては初めてCAN-AMに挑戦したことも、大きな話題となった。イノベーション・レーシングがエントリーしたこのマックス・スペシャルは、2サイクル2気筒で110馬力を発生するロータックス製スノーモビル用エンジンを4基搭載、変速機はスクーターの“シルバー・ビジョン”のようなVベルトと遠心クラッチによるオートマチックで、しかも4WDである。だが関係者には、うまく走るかどうかおなぐさみ・・・という感じで受け取られていたようだ。
 16日午後からの第1プラクティス・セッションで、2レース振りのチャパラル2Jとビック・エルフォードのコンビは、数周めに早くも昨年ブルース・マクラーレンが樹立した59秒53のラップ・レコードをマーク。さらにタイムを短縮しつづけ、20周目には59秒4という大記録をアッサリたたき出してしまった。
デニス・フルムはこれに挑戦してピットオフ。全力走行しても1分00秒6がやっと。
文章省略
わが鮒子田 寛は、チャパラル2Jに勝るとも劣らぬ“革新的”なマックス・スペシャルで勇躍プラクティスに臨んだが、1分29秒4にとどまり、残念ながら最も遅いマシンとなった。
(注:参考までにF-Aチャンピオンシップ第4戦予選において、V8 5000ccエンジンを搭載したF-Aイーグル・プリムスで鮒子田はこのラグナセカ・スピードウェイを1分05秒80で走り予選9位をゲットしている)
そのうえ20周目めにエンジンが焼き付いて走行不能。これで決勝進出はもちろん、再度のタイム・アタックも不可能となってしまった。

TOP : Whatever Happened to The MAC'S IT SPECIAL !!
He said, "Why ?!"

TOP : Invade CAN-AM ! MAC'S IT SPECIAL and Hiroshi Fushida.
(C) Photographs by Joe Honda.
 我が鮒子田 寛のチャレンジは無謀だったのだろうか?!確かに無謀だと言う人はいるとは思うが果たしてそうと言い切れるだろうか?
ここで私は1人の興味ある1人のドライバーを紹介したい。それは日本にも縁が(!?)ある“ビック・エルフォード”だ。
エルフォードは、1968年から69年まであのポルシェ・ワークスの一員としてジョー・シファートと共にポルシェ908や917の勝利に貢献した実力者だ。さらに1969年、突如チーム・トヨタの助っ人ドライバーとして名乗りを上げ、日本グランプリにあのトヨタ 7で出場したという経歴の持ち主でもあるのだ。
エルフォードは1970年よりポルシェがワークス活動を中止したため“助っ人家業”に徹してレース活動を行なっている。
まずはマニファクチャラーズ・チャンピオンシップレースにはザルツブルグ・チームの一員としてポルシェ917や908をドライブしル・マンなどに参加、また今年からCAN-AMに挑戦し、AVSシャドウ・チーム、チャパラル・カーズなどの助っ人ドライバーとして毎レースマシンを変えチームを変え挑戦している。もちろん、チームからレースごとのスターティング・マネーを得ての出場だ。例えば第8戦ドニーブルックCAN-AMの時などはチャパラルの不参加により当初フォードG7Bで予選を走っていたがマシントラブルで決勝には他チームのマクラーレンM6Bで出場するという離れ業を演じたりしている。
何が言いたいかというと我が鮒子田 寛ももう少し何かが噛み合っていたら鮒子田がエルフォードになっていたかもしれないと言うことだ。ドライバーの腕だけを比べれば鮒子田 寛がエルフォードに劣っているところなどないはずだ。日本グランプリでのトヨタ 7での走行は決してエルフォードが鮒子田より抜きんでていたことは何もなかった。
この“何か”の違いが鮒子田をマックス・スペシャルへ、エルフォードをチャパラルへと分けさせたのではないだろうか・・・。

TOP : Vic Elford and his SHADOW in 1970.
(C) Photograph by Joe Honda.

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