The Ford GT40 in '70 Suzuka 300Kms Race.
The Porsche 908 in Suzuka
with Kuniomi Nagamatsu.

TOP : Top checker !! Kuniomi Nagamatsu and his Porsche 908.( Left side )
The Winner and Hiroshi Kazato.( Right side )
The 3rd place ??
(C) Photograph by Naofumi Ibuki.

 ここで、永松選手の乗るポルシェ908スパイダーについてちょっと触れてみたいと思います。
1969年、10月10日の日本グランプリは計6回目を迎えて異常な盛り上がりを見せていました。
ニッサンR382(作戦でしょうか、エントリー時の5000ccV12から急遽6000ccV12に変更届を出したのは有名な話)、トヨタ ニュー7、そして、タキ・レーシングの切り札だったワークス体制で臨んだポルシェ917とジョー・シファートの組み合わせ。そこに同じくタキ・レーシングからエントリーしたマシンがありました。これが今回紹介するポルシェ908スパイダーです。
ハンス・ヘルマンと田中健二郎とのコンビで日本グランプリに挑戦したこのポルシェ908スパイダーは、同年のマニファクチャラーズ選手権を獲得したマシンでありました。
シャーシNOが、「02008」ということから908スパイダー8台目のマシンであることが分かります。(1969年カーグラフィック12月号参照)
エンジンは伝統の空冷フラット8DOHCで、ブロック、ヘッド共アルミ合金製、ボアXストローク 78,5X60mmの2997ccで最高出力は350HP(DIN)/8400rpm、最大トルクは32.5mkg/6600rpmでありました。
シャーシは、これまた伝統の(タイプ906-910-907のシャーシと共通)アルミ合金管によるもので、スチール製に比べて大幅な軽量化を図ることが出来る当時最高級のものでありました。ちなみにプラモデルのユニオン(旧フランス エレール社)製1/24スケールポルシェ907/8を作り上げた方でしたらその複雑なフレーム構造をご理解していただけると思いますが・・・。
車重は、日本グランプリ時点の計測で631kgでありました。
ところで、我が国にも当時3000ccエンジンを持ってル・マンへの参加を計画していたマシンがありました。1968年に登場したトヨタ7です。この3リッターV8エンジンを積んでいたトヨタ7とポルシェ908を比較してみますと、トヨタ7は、2バルブV8 DOHC 3000cc(不思議な事に当時のオートスポーツ誌やカーグラフィック誌にはなぜか詳しい排気量が書かれていません。どなたか詳しい排気量をご存知でしたら御一報くだされば幸いです)で330ps/8400rpm(1968年日本CAN-AM時)を発生し、デンソー製燃料噴射付き。
シャーシはアルミ合金製モノコック。ボディはFRP製で車重は日本グランプリ時、大坪NO.5が798Kg、続いて鮒子田NO.3が802g、福沢NO.2が820g、そして一番重かったのは細谷NO.1で840gとなっています。
オートスポーツ誌1968年4月号によればテスト中のトヨタ7は600Kg後半の車重であったということからテストで各部の補強による増量の結果で800Kg前後になってしまったと思われます。
このことから同時代とは言え、ポルシェ908の性能がいかに高かったことがわかります。

*後日、ありがたいことにH氏より、トヨタ7の詳しい排気量を教えて頂く事が出来ました。ありがとうございました。
 

 トヨタ7の3リッターモデルの詳しい排気量等が分からないとの話ですが『CAR GRAPHIC』誌2003年6月号に桧垣和夫氏が詳しい解説を掲載しています。この記事によるとボア・ストロークは83×69mmで総排気量は2986ccだったそうです。8、10月号には5リッターとターボモデルの記事が掲載されています。一読をお勧めします。
初期のトヨタ7は私たちの世代には謎が多い存在で、私が持っている1979年に出版されたオートスポーツ別冊『栄光のビッグマシンたち』でもトヨタ7の排気量は3Lとしか表記されていませんでした。
 昭和45年2月28日、恐れていた事が、具体的な形となって現れた。H新聞に報道された記事は、僕を叩きのめしてしまった。
「タキ・レーシングは、レース活動を中止」するというのだ!
 この2ヶ月間、レース活動を中止するかもしれぬ可能性を認めながらも、僕は一縷の望みをどうしても捨て切れなかった。というのは、ポルシェ908と別れたくなかったからだ。
 昨年の日本CAN-AM前から乗っているポルシェ908は、僕にピッタリ合ったマシンだ。コーナーでも自分の意志通り振り回せるし、908を乗りこなしているという自信もある。
このマシンをもう少し研究してみたかった。だから僕一人になっても残って、908で戦うつもりでいた。単にドライバーとして乗るだけではなく、微力ながらチーム運営に協力しようと思い、908の経費をはじき出して、スポンサーを捜す準備もしていた。それがすべてパーになってしまったのだ。

 上のコメントは、1970年発行のオートスポーツ誌5月号「JAFグランプリに燃やす静かな闘志 永松邦臣」から引用抜粋させて頂いたものです。
いかに当時の永松選手がこのポルシェ908に惚れ込んでいたかが分かる文面です。
この後永松選手は、三菱フォーミュラ・チームの契約ドライバーとなり、見事1971年日本グランプリにおいて、コルトF2000を駆り、生沢 徹などの有力選手を抑えて優勝する事になるのですが・・・。
 GT40が初めて鈴鹿を走った1970年鈴鹿300Kmレースは、レース自体は鮒子田氏が語っていたように単調極まりないレースだったと思われますが、実に参加車両のバラエティが富んでいたレースではなかったかと想像されます。
フォードGT40(1968年マニファクチャラーズ選手権優勝車、1968-69年ル・マン24時間レース優勝車と同型車)、ポルシェ908スパイダー(1969年マニファクチャラーズ選手権優勝車と同型車)、発売後初レースとなる北野 元ドライブのワークス・フェアレディZ432R、同じく高橋国光が駆るワークス・スカイラインGT-R、旧態化としているもののまだまだ実力のあるローレックス・ポルシェ906、当時急成長していた風戸 裕ドライブのポルシェ910。そして、クラス1レースに出場していた本田博俊氏の力作 カムイ・ホンダ、林将一氏のカーマン・アパッチなど非常に興味あるマシンたちが終結した鈴鹿300Kmレースは永遠に私たちの脳裏に記憶される事でしょう。
 これで「GT40が鈴鹿を走った日」を終わらせて頂きますが、当時の貴重な写真を提供して頂いた伊吹氏にこの場を借りてお礼を申し上げたいと思います。この写真がなければ到底この企画ページは出来ませんでしたから本当に感謝感激です。
ありがとうございました。

主宰者

TOP : The Le Mans Start !! Kuniomi Nagamatsu and his Porsche 908.


TOP : The frame NO.02008/Porsche 908's a engine and others.
(C) Photographs by Naofumi Ibuki.


TOP : The 3rd place ?! Kenjirou Tanaka !?
He gots a 4th place.
鈴鹿300Kmレースは、結局永松選手のポルシェ908スパイダーが独走優勝。
第2位は、同じくタキ・レーシングより参加した風戸 裕選手でした。
右にいるフォードGT40をドライブしたセーター姿の田中健二郎選手は、最終ラップでガス欠となり、
ゴール寸前でスカイラインGT-Rの高橋国光選手に抜かれて総合4位という結果で終わりました。

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(C) Photographs by Naofumi Ibuki.