(C) Photograph, modeling by Osamu Aihara.
“執念のドライビング ワトキンスグレン6時間レース” 

 

 1968年7月の世界マニファクチャラーズ選手権ワトキンスグレン6時間耐久レースにボクは招かれ、3リッターポルシェ908のシートにおさまった。もちろんこの時は、ヨーロッパからアメリカへの旅費、滞在費すべて向こう持ち。契約金もポルシェ社から頂いての正式のワークス待遇。
 最初のテスト、15周で、生まれて初めて見るアメリカ、ワトキンスグレンで1分16秒台を出し、最後に6周して1分13秒5。
 予選には純白、イエローノーズのNo.3、67年日本グランプリ優勝と同じカラーリングのポルシェ908に乗り、堂々1分12秒1。ボク自身は1分11秒台も十分自信があったが、耐久レースなので予選ポジションは関係ない。第2回走行には出ず、ピットで昼寝(!)。F1ドライバーのシファートとイクスはメンツを賭け激しいアタックを繰り返していた。
*上の文は、交通タイムズ社発行 生沢 徹著作「生沢 徹のレース入門」より抜粋引用活用させて頂いた。

 1968年のFIA世界マニファクチャラーズ選手権は、レギュレーション変更のため、前年までのフォード、チャパラル、フェラーリなどのモンスターマシンは姿を消し、排気量3リッターまでのプロトタイプカーと5リッターまでのスポーツカー(年間50台生産義務)により争われていた。
それまでクラス優勝のみに標準を合わせていたポルシェは、今回の規約変更で一躍トップコンテンダーへと登りつめチャンピオン候補一番手と見られていた。しかし、伏兵“JWフォードGT40”の活躍により、全10戦中7戦までにポルシェ4勝(デイトナ、セブリング、タルガフロリオ、ニュルブルクリンク)、フォード3勝(BOAC、モンツァ、スパ)と後3戦を残し、緊迫したポイント差で後半戦を迎えることとなった。さらに、出場レースのベスト5レースの有効得点で勝敗を争うFIA方式のため第8戦ワトキンスグレンは両チームとしては是が非でも勝ちたいところである。
 迎えた第8戦ワトキンスグレン6時間レースは、7月14日に開催された。ワークス・ポルシェは4台のファクトリーマシンを投入し、必勝の構えだ。
対するJWオートモーティブ・エンジニアリングは、5000ccガーニーヘッドを持つ強力なフォードGT40を2台持ち込みこれまた優勝を狙う。
すでに旧態化したスポーツカー“フォードGT40”を改良、進化させたジョン・ワイヤーの腕前は流石としかいえない。前年の“ミラージュM1”での経験がものをいっているのかも知れない。
一方、前半戦好調だったワークス・ポルシェ・チームは、中盤戦からフォードに押され気味となり、細かなトラブルも発生し、苦戦を強いられているのが現状だ。
 必勝体勢のポルシェ・チームにTETSUがわざわざ呼ばれたということは、まさに勝つためのドライバー選択に他ならない。TETSU自身大変名誉なことと受け止めていたと思う。
 そのTETSUは、ワトキンスグレンの予選では、ポールポジションを獲得したジョー・シファート/ヴィック・エルフォード組のポルシェ908(1分10秒2)、2位ジャッキー・イクス/ルシアン・ビアンキ組のJWフォードGT40(1分10秒8)、3位ハンス・ヘルマン/リチャード・アトウッド組のポルシェ908(1分11秒5)に続く、4位を獲得。もちろん、TETSUが出したタイムが4位を得たのだ。
 

 決勝レースは荒れに荒れ、新鋭マシンのポルシェ908にトラブルが多発した。次々にマシンは壊れていったが、今度はボクも正式なワークスの一員。コース上、リタイヤしたマシンのオイルだらけの中、走りに走ってポジションを挽回、ピット・ストップのロスをカバーして、ボクのドライブしたポルシェ908だけが生き残り、6位入賞。
 ポルシェにしては惨敗に等しい結果に、ワークスの一員としてボクもレース後残念でならなかった。
*交通タイムズ社発行 生沢 徹著作 「生沢 徹のレース入門」より抜粋引用活用させて頂いた。

 そう、TETSUは約2時間に渡ってワークス・ポルシェ908をドライビングし、稀に見るポルシェ各車のトラブル続出の中、唯一完走し6位入賞を飾ったのだ。
当初ドライブする予定の#3号車(スクーター・パトリック/TETSU組)は、レース中シファート/エルフォード組を初め、多数のワークス・ポルシェがトラブルでリタイヤし、上位にいたTETSU組のポルシェに乗り換えたため、TETSUは、ハーマン/アトウッド組の#2ポルシェに乗ることになったというのが真相である。
 

 チェッカーを6位で受けると、ハンシュタイン氏が、「テツ、良くやってくれた。6位でも、キミのマシンだけが生き残って、フィニッシュしてくれたじゃないか。コングラッチュレーション!」
 ポルシェ史上最悪のレースだったが、考えようによっては、ボクのガンバリがあったからこそ1台だけでも完走し、ポルシェの名誉をかろうじて保たれたのかもしれない・・・。
夕食をハンシュタイン夫妻に招待され、「いや、テツはホントによくやってくれたよ。一時はシファートやアトウッドたちをリードして走ったじゃないか」
と、かえって総監督になだめられるくらい。ほんとにハンシュタイン氏はいい人物であった。
 ボクの長いレース歴の中でも、このポルシェ・ワークス契約、68年ワトキンス・グレン6時間耐久レースは、精神的にも心理的にもつらいレースだった。と同時に、F1ドライバーと同じ釜のメシを食い、名門ポルシェのレースぶりをつぶさに見学できたいい機会だった。この体験が将来の自分に大いに役立ったし、ハンシュタイン氏のチーム采配ぶりも、現在のボクの仕事に役立っている。
*三度、交通タイムズ社発行 生沢 徹著作 「生沢 徹のレース入門」より抜粋引用活用させて頂いた。


TOP : Tetsu and his Porsche 908 with a works porsche team at Watkins Glen in 1968.

 1968年度世界マニファクチャラーズ選手権行方は、5月革命により9月28〜29日に延期された“世紀のル・マン”で全てが決まることとなった。
結局、このレースでもワークス・ポルシェはJ.WフォードGT40に勝つことが出来ず2位に終わり、チャンピオンは再びフォード(実質はJ.W.エンジニアリングであるが・・・)の手に落ちてしまった。
結果、2年連続の選手権敗退により、現状のワークス・ポルシェ体勢にも大きな変化が必要とされることとなった。まずは、長年監督を務めたフォン・ハンシュタイン氏が引退、次期監督にはそれまでポルシェのドライバーとして活躍してきた“リコ・ステインマン”氏が就任することとなる。そして、1969年には、最強のスポーツカーと言われる“917”の登場も控えている。
この変革は、翌年もワークス・ポルシェでのドライブを臨んでいたTETSUにとっては寝耳に水であったのは言うまでもない。
しかし、そんなことで塞ぎこむTETSUではない。TETSUにはさらなる“夢”が待っているのだ。それは“グレーデッド・ドライバー”への挑戦だ!!

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