'71 富士グランチャンピオン 
富士マスターズ250Kmレース
PORSCHE 917K TETSU IKUZAWA
(発売元 フジミ模型)
発売記念 特別企画

TETSU IKUZAWA with WORKS PORSCHE 

“ワークスポルシェへの道” 
生沢 徹 

 “ハンシュタインからの電話” 

6月10日(月)(1968年)、ポルシェのレーシング・マネジャー、ハンシュタイン氏から突然電話がかかってきた。
「あなたのスケジュールのことなんだが、7月9日にワトキンス・グレン(アメリカ)まで来てもらえますか」
「いったい、どういうことなんでしょうか?」
「じつは、7月14日の<ワトキンス・グレン・グランプリ>に、あなたをポルシェのワークス・ドライバーのひとりとして正式に採用することが決まったんです」
「僕としては、むろんオーケーです。喜んで参加させてもらいますよ」
 嬉しい知らせだった。去年の<BOAC500>の時は補欠ドライバーとして名をつらねただけだったが、今度は正式メンバーとして、ポルシェのファクトリー・マシンで走るのだ。6月10日現在、4台エントリーさせているが、そのうちの1台は、僕を乗せるためのマシンだというのである。ハンシュタイン氏はこうつけ加えた。
「わたしは、去年、かならず来年はあなたにチャンスを与えると約束した。その約束をはたすことが出来てうれしい」
 正式に起用されたのだから、旅費などは、むろん向こう持ちだし、ポルシェが得る賞金の分配にもあずかれるということだ。マニファクチャラーズ・ワールドチャンピオンシップのひとつである<ワトキンス・グレン・グランプリ>に、しかもトップを行くポルシェのドライバーとして参加できるのは、まったく嬉しいかぎりである。
 3年間の苦労もようやくみのってきたようだ。自分のカネを使わずに・・・要するにプロフェッショナルとして走ることが出来るようになったのだ。
 そして、<ワトキンス・グラン>の結果いかんでは、9月末に延期された<ル・マン24時間レース>へ出場するチャンスも出てきたわけである。だが、このチャンスは、よく考えてみると、スカルフィオッティの死によって生じたものである。つくづく、レースの世界のきびしさと冷酷さを感じないわけにはいかなかった。

 上のコメントは、1968年三栄書房発行の「AUTO SPORT」誌8月号に記載されていた生沢 徹手記<チェッカー旗をめざして その1>より引用活用させて頂いた。
 

“ジャンピング・ボード” 

 生沢 徹とレーシングポルシェとの出会いは、1963年に初めて日本で開かれた「第1回日本グランプリ」の国際スポーツカーレースに参加していたポルシェカレラ2を見た時が最初だ。その時のドライバーは、のちの生沢 徹になくてはならない存在となるフォン・ハンシュタインだった。
しかし、本当の意味でレーシングポルシェと関わったと言えるのは、同じく1964年に開催された「第2回日本グランプリ」だったのではないだろうか。
この年の日本グランプリは、前回前評判とは裏腹に完敗してしまった“プリンス自動車”が、社運を賭けて臨んだグランプリでもあり、生沢は燃えに燃えていた。そして、彼に与えられたマシンは、あの名車と言われた“プリンス・スカイライン2000GT-B”であった。
当時、プリンスのエースドライバーであった生沢 徹は、このマシンを駆って当然の如く優勝するつもりでいたのだ。ところが、その望みも一瞬のうちに落胆に変るある“出来事”が起きた。
その出来事とは、生沢のライバルであり、また友人でもあったトヨタ自動車のエースドライバー“式場壮吉”がこの日本グランプリのために大変なレーシングカーを個人でエントリーしてきたことだった。そのマシンとは、なんと当時のマニファクチャラーズ世界選手権2000cc以下のスポーツカーチャンピオン“ポルシェ904GTS”だったからだ。
そして、必勝の覚悟で望んだ本戦だったが、またしてもプリンスは完敗を喫してしまう。しかし、エース生沢は、たったの1周だけだったが式場のポルシェを抜いてグランドスタンドに帰って来たのは流石だった。結局これが、プリンスのいや、生沢 徹の唯一の抵抗、そして意地だったと思う。
 そして、プリンスは打倒ポルシェを目標に本格的プロトタイプカー“R380”を開発することを決定、1965年の日本グランプリを是が非でも物にする決意を固める。しかし、そんなプリンスの思惑とは裏腹に諸般の事情で1965年日本グランプリは中止となってしまう。
 迎えた1966年5月3日、生沢 徹は、日本屈指のハイスピードサーキットとして誕生した“富士スピードウェイ”のコース上にいた。
マシンは、“プリンスR380”。そして、このレースには計4台のプリンスR380が参加していた。目標はただ1つ、優勝だった。
必勝体勢で望んだ「第3回日本グランプリ」だったのだが、またしてもプリンスの前に立ちふさがる脅威のマシンがあった。
それは“ポルシェカレラ6”。その年、ポルシェが世界に送り込んだ最新鋭のプロトタイプカーである。2リッター以下では無敵を誇っている最速マシンでもあった。これをプライベーターの滝進太郎が個人で購入し、参加したものだ。
 エースの生沢、実力の砂子と言われていた2人に与えたプリンスチームの作戦とは、砂子を優勝させることだった。そして、生沢は、あの脅威のポルシェを抑え続け、砂子を優勝させることが使命とされた。
 レースは、予想通り砂子が逃げ、滝進太郎のポルシェが追う展開となった。そして、生沢のプリンスは再三滝のポルシェを抑え、焦った滝のスピンクラッシュを誘うことに成功する。結果は砂子義一が作戦通り優勝。生沢はリタイヤであった。しかし、このレース、生沢にとっては悪役に回る損な役回り。やはり、優勝することこそ生沢 徹の心情でもあり、目標だった。グランプリ終了後、生沢はプリンスを退社、目標だったイギリスF3レースに単身挑戦することとなる。
 イギリスでの生沢は、苦戦の連続であった。そんな中でも、生沢は確実に実力をつけていた。
ところが、日本ではその年大変な事が起きていたのだ。プリンス自動車と日産自動車の合併だ。日産がプリンスを吸収するかたちでの合併であり、事実上、プリンスの名は消えた。
 1967年、生沢 徹は日産自動車にドライバーとして参加出来ないか打診していたが、キッパリ断られている。
すでに、ドライバーは満杯であり、必要ないというそっけない返事であった。
これを境にして、一匹狼“TETSU IKUZAWA”が誕生したと言って良いだろう。それ以降、TETSUの苦難が始まる。
日本人ドライバーである限り、年一度の日本グランプリには是が非でも参加したいところ。さらに、イギリスでレース修行を続けるTETSUにとって、資金源となるスポンサーを見つけなければ命取りになってしまう。そのためにも、日本グランプリに出場して好成績を上げ、スポンサーを獲得しなければならなかったのだ。
ワークス・チームでの出場は、まったく自己資金などは必要ない。ただ、チーム作戦通りにステアリングを握れば良かった。しかし、独自で1967年の日本グランプリに参加するためには、まずはスポンサーを見つけて資金を獲得しなければならない。なぜならば、参加車購入費(あるいは、レンタル費)やエントリーフィーなども全て自分で賄わなければならないからだ。
そして、日本では初めてだと思われるプライベートドライバーのスポンサー探しが始まった。まだまだモータースポーツ自体が広告媒体と認識されていない時代、TETSUの苦労は想像を絶する厳しさだったと伝えられている。
 1967年5月3日「第4回日本グランプリ」、TETSUは、前年と同じように富士スピードウェイのコース上にいた。
スタート順位は、一番先頭の右側。予選で一番速く走ったものにだけ与えられるポールポジションの位置だ。
そして、マシンは、昨年まで宿敵だったマシン“ポルシェカレラ6”。TETSUのドライビングスーツには数多くのスポンサーワッペンが所狭しと貼られていた。
真っ白なカレラ6のボディにも然りだ。TETSUは、スポンサーの出資により、ミツワ自動車からカレラ6をレンタルすることに成功、レースに参加出来るようになったのだ。
 そして優勝したのは、TETSU だった。プリンスを吸収合併し、その最新のレーシングカー技術を同時に手に入れた日産自動車が作り上げた“ニッサンR380II”に乗る高橋国光と、同じくポルシェカレラ6で出場した酒井 正とのデッドヒートを制しての勝利だ。TETSU IKUZAWA 快心の勝利である。

 まさに TETSU にとってポルシェカレラ6は、飛躍への“ジャンピング・ボード”だった。

“3連勝” 

 第4回日本グランプリを制した後のTETSUの活躍は目を見張るものがあった。前年まで初期的なマシントラブルで完走すら出来なかったのが嘘のよう。
日本からわざわざ持ち込んだ“ホンダS800”と現地で調達した“ブラバムF3”は快調そのもので、確実に上位にTETSU IKUZAWAの名が顔を出すようになってきた。そして、圧巻だったのが7月9日にイギリス ブランズハッチ・サーキットで行われたクラブマン・レース(M.M.K.M.C.Clubman's Car Races)だった。
当初、F-3レースとマーク・スポーツカーレースのみに参加する予定だったが、F-3レースで初優勝(しかも、ポールポジションと最高ラップを獲得)を飾ると、続くスポーツカーレースでは、ホンダS800を駆って、予選3位からスタート、コブラやスペシャルMG-B、ジャガーEタイプらとデッドヒートを展開し、総合3位クラス優勝(1150cc以下)を勝ち取ってしまう。さらに、当初出場予定のなかった第3レース“フォーミュラ・リブレ”レースにも余勢をかってブラバムF-3で出場。相手はロータス40やマクラーレンF-1に4.7リッターエンジンを搭載したお化けマシンたち、予選を走っていないTETSUは最後尾からスタート切る。このレース、TETSUに勝ち目はないと思われた。
 

 ところが、スタートがまず大成功で、第1コーナーまでに出場車のおよそ半分を抜いてしまった。そのあとも、抜きまくって5周目くらいにはなんとトップに立ってしまった。我ながら不思議な気がするほどだったが、そのまま独走して優勝ーーー3連勝をとげてしまったのである。おまけにまたも最高ラップを獲得した。
西川さん(ホンダS800のメカニックをしてくれていた人)も、イギリスの来て最初のレースでホンダS800が勝ったので大喜びだ。ステーブルス(TETSUのチーム)の仲間たちも、いささか呆れ顔で「おめでとう」を言ってくれる。
ホンダS800のタイヤはブリヂストンのレーシングを使っているが、当初はちょっと不安だった。日本の新しいサーキットと違って、こちらのコースは古くてツルツルになっているので、果たして大丈夫かと思ったのだ。
だが、日本のレーシング・タイヤは本場でも決してひけをとらないことを実証してくれたわけだ。
今日みたいに1日でいくつものレースに勝つなんて、昔、鈴鹿あたりで浮谷(故 東次郎選手)と二人で賞品をさらっていたころのことが、ふと心に浮かんだ。
*(1967年三栄書房発行「AUTO SPORT」9月号 生沢 徹手記「日本人ドライバー ただいま奮戦中 ヒノキ舞台は目の前だ!」より引用活用)


TOP : TETSU IKUZAWA and his Brabham F-3 in England.


(C) Photographs by Joe Honda.

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