"THE TOPICS OF A WEEK "
"WITH MY INSIDE" 
 身の回りで起こる数々の出来事や普段見落としてしまっている事柄、そして最近感じていることなどを中心に、自己中心的な内容ではありますが、主宰者自らのワガママとしてお許しください。

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 3/DEC/2000 久々に感激しました!「20世紀! 名曲黄金時代スペシャル 井上忠夫 音楽葬」
 皆さん、こんばんわ。寒さの中、風邪などおひきになっている方もいらっしゃるとは思いますが、いかがお過ごしでしょうか。
私は、相変わらずの忙しさで体力的に少々まいっているというのが現状です。
そんな中、先週TBSで放送されました「20世紀!名曲黄金時代スペシャル 井上忠夫 音楽葬」は、ひさしぶりに青春時代の興奮を味あうことが出来、大興奮の時間を過ごさせて頂きました。
もともと、元・スパイダーズの田辺昭二氏などの音頭で、元・ブルー・コメッツで残念ながらお亡くなりになった“井上忠夫”氏の追悼イベントとして企画されたこの「音楽葬」でありますが、友情出演した“ザ・スパイダーズ”と“ジャッキー吉川とブルー・コメッツ”、そして、“内田裕也”らの出演によるこのイベントは、本当に凄いの一語に尽きる内容でありました。
特に、ザ・スパイダーズの1日だけの再結成には、興奮いたしました。
そして、ブルー・コメッツがとりを務めるこのイベントのセミ・ファイナル的な立場として登場した“スパイダーズ”の第1曲目は、なんと私が大好きだった「風が泣いている」でありました。
堺正章ことマチャアキがシャウトを聞かせて熱唱する姿にしばしうっとりしてしまいました。私が中学1年生の時に、従妹の家で聞いた最初で最後だった「風が泣いている」のTVライブが忘れられず、どうしても井上孝之氏のビートの効いたギターをもう1度聞きたいと思っておりました私としては、大感激でありました。
 上の画像は、スパイダーズが登場して、オープニング曲である「風が泣いている」を演奏、そして、マチャアキが熱唱しているところであります。また、ムッシュかまやつ氏のリズム・ギターも最高でした!
 マチャアキの一言「皆さんに悲しいお知らせがあります。スパイダースは、本日限りで解散します!」。これには場内大爆笑!
 マチャアキと井上順さんとの会話は、昔と変わらず大変愉快な会話でした。曲目は、「風が泣いている」、「あの時君は若かった」、「なんとなく なんとなく」、「いつまでも どこまでも」、そして、「BUN BUNバン・バン」。ラストは、名曲「夕陽が泣いている」でした。
 上の画像は、「バン・バン」で昔ながらの振り付けで踊る“マチャアキ”、“ムッシュ”、そして“井上順”。
右の画像は、特別ゲストで登場したドン“内田裕也(右端)”らと歌う皆さんたち。曲は、“What'd I say”!!
 ラストを飾ったのは、もちろん“ジャッキー吉川とブルー・コメッツ”。オープニングは、デビュー曲「青い瞳」。
 「北国の二人」、そして、ラストは、ゲストの面々が観客席で見守る中、照明が消えて“井上忠夫”氏の写真が映し出されて「ブルー・シャトウ」でした。
井上さんの御冥福をお祈ります。そして、楽しい企画イベントを見れて幸せでした。ありがとうございました。
主宰者
 5/NOV/2000  「CAR トップ」創刊号を入手!!
 ちょうど1ヶ月のインターバルをおいて(?!)「THE TOPICS OF A WEEK」であります。
先月から今日まで、遂に休みなしの新記録が続き、少々バテ気味であります。
そんな中、今から32年前に創刊いたしました「CAR トップ」誌を入手してしまいましたので、何の意味も成さなくなりましたこの「THE TOPICS OF A WEEK」のお詫びとして皆様にその内容を2回に分けて御紹介しようと思います。
 ところで、「CAR トップ」誌は、交通タイムズ社発行の月刊誌として創刊されました。1968年7月号がこの創刊号に当たります。全体を見て見るとどうもこの創刊目的と言うのは、自動車雑誌版「平凡パンチ&プレイボーイ」をめざしていたのではと思われてなりません。事実、キャチ・フレーズを見ると「クルマにシビれるキミ!クルマだけではもの足りないキミ!そういうエネルギッシュなオトコのヤング・マガジン」とあるところから想像出来るではありませんか!
まず表紙を見ますと、1966年のジュネーブ・ショーで発表されたアルファ・ロメオ1600デュエットがいかにも60年代の女性と思われるモデルと共に写っておりました。ちなみに、このモデルは、1967年度ミス日本コンテストで見事第3位となった当時17歳の学生でありました。
続いてカラー・グラビアと見ますと、「マセラティ・ギブリ」をはじめとして、世界で初めて“ロータリー・エンジン”を搭載して話題をまいた「NSU RO-80」、そして当時の人気TVアクションドラマ「ザ・ガードマン」に出演していた“藤巻潤”がポーズをとる「アバンティII 」、さらに次ぎのページをめくると出ました!「HONDA F-1 RA-301」が初めて鈴鹿でジョン・サーティーズによりテストされたもようがレポート形式で紹介されておりました。そうなんですね!1968年のホンダは、まさにF−1世界チャンピオンを取る勢いだったのを忘れておりました。

TOP: Maserati Ghibli (Leftside), NSU & Avanti (Mid) and Honda RA-301(Rightside).
そして、白黒ページに移りますと、なんとまだ結婚する前の“マイク真木”と“前田美波里”が、“ロータス・セヴン”で仲良くドライブしているところが特集されているのには驚いてしまいました。
その頃のマイク真木は、セヴン以外にも“MG-TD”、“マツダ・ボンゴ”、“フォルクス・ワーゲン・キャンプモビル”、そして“シボレー・ベルエアー”も所有しているという“カー・キチ(死語でしょうか!?笑)”であったのがうかがえます。

M.Bibari and Mike Maki with Lotus 7.
「CAR トップ」目次
★交通違反の抜け穴教えます。
★血戦 サニークーペ対カローラスプリンター
★どんなクルマに女性はシビれる
★2ペダルの革命ホンダAT
★異色劇画 謀略のグランプリ
★ヤング・サロン<ちょっとひとこと>三保敬太郎/応蘭芳 <ドライブ・テクニック>大久保力etc
★マイカー講座/ケチの悪知恵
★私はこうして免許証をとった!
★<天下のセクシー女優にアタック>カーマニア応蘭芳にエッチな質問
★<カー・セックスは最高という実態>女性の初体験は80%まで車の中
★<ウルトラセブン>水を走り空を飛ぶ“ポインター”
大まかな内容は上記の通りですが、“シビレル”なんて言葉が時代を感じてしまいます。
今回は、ここまでということで失礼します。
主宰者
 6/OCT/2000 「TOTOTA-7」と「思い出の板橋」・・・!
 皆さんお元気でしょうか!?
前回このページを書いたのはなんと8月19日ということで、1ヶ月半ぶりの更新ということになってしまいました。
相変わらず仕事に追われ、過去2年間の無職生活のつけを払わされている心境であります。
ところで、以前から思っておりました60年代の名車である「TOYOTA-7」についての企画ページをやっとの思いで完成することが出来ました。
「TOYOTA-7」は、数々の日本グランプリに勝利した日産自動車の「ニッサンR380-382」の対抗馬として1968年に登場したすばらしい国産レーシングカーでありました。
しかし、どうしてもニッサンの牙城は崩せず私たちの記憶の中ではたえずNO.2の称号を与えられておりました。そんな「TOYOTA-7」のすばらしさを20世紀の遺産としてなんとか残しておきたいという一心で、当時のチーム・トヨタのドライバーたちを交えながらの内容ではありますが、「The Young Soldies and TOYOTA-7」という題名で作らさせて頂きました。
 当時のチーム・トヨタのドライバーたちは、ニッサン・チームを“サムライ”と称せば、“貴公子”とでも言えば良いのでしょうか、とにかくタレント性豊かなドライバーたちが沢山おりました。それだけにドライバ―たちの“栄光と影”の同居が鮮明に現われて、その軌跡をたどるだけでも1つのストーリーが出来てしまうほどの話題性を彼らは持ち合わせておりました。
 福沢幸雄、川合稔、そして、鮒子田 寛などはまさにスターでありました。
福沢や川合は、共にモデルとして活躍し、その感性においてはレーシング・ドライバ―である事を忘れてしまうほどすばらしいものを持ち合わせておりました。また、トップ・タレントと噂になったり、また電撃結婚したりとレース以外の話題もトップクラスであり(“小川”名に2人とも縁があったのも不思議でした!)、そして最後は、共に「TOYOTA-7」のテスト中での事故死と、まさにめくるめく60年代を駆け抜いた男たちであったと思います。
また、鮒子田は、不出世のドライバ―として我々の脳裡に刻み込まれており、トヨタ1速いドライバ―であったことを私たちは忘れることはないでしょう。そして、我がTETSUと共に、1973年のLE MANSに日本人として初めて挑戦してことや、ビッグ・マシンに憧れて1970年にトヨタを退社した後、単身アメリカに渡り、当時スタートしたばかりであった「F-A(アメリカのOHV 5000ccエンジンを使ったフォーミュラカー・レース」シリーズに挑戦したり、「CAN-AM」シリーズの異色のマシンであった「マックス・スペシャル(2サイクル・エンジンをフロントとリヤに搭載した四輪駆動マシン)」のドライバ―としてエントリーしたり、また、5000ccエンジンのストックカー・シリーズであった「Trans-Am」シリーズに出場したりと鮒子田は思うがままにレースを満喫したのでした。しかし、レース中の事故でレース活動を一時中断し、復帰後、日本に戻り1971年より開幕した「富士グランチャンピオン・シリーズ」に挑戦、シェブロンB21Pを駆り、見事1972年度のシリーズ王者となったのは流石でありました。
 私は、彼らのことはこれからも忘れることは無いでしょう。それだけ当時の活躍がカルチャー・ショックだったからにほかありません。
 さて、話しはがらっと変わりますが、今日仕事で池袋に行く機会がありましたので、前から行ってみたいと思っておりました1989年まで私が住んでおりました“板橋”へ行ってまいりました。
 板橋は、私が幼稚園(いったいいつのことか・・・笑)の頃から住んでおりました。私が住んでおりましたのが当初公団住宅で、私のオヤジが抽選で狭き門の中、当選という幸運によって住みついたわけであります。
ところが、今日そのアパートを久しぶりに寄ってみようかなと思い行ってみるとなんと無残にも・・・。信じられなかったのですが、全て取り壊されてマンションが建つ予定と立て看板が無常にもたっておりました。
 築40年は経過したと思われる「コープ板ビル(鉄筋5階建て)」は無残にもまったく面影が無く取り壊されていたのです。そして、私の心の中も何となく空洞の様になってしまい、思い出の「コープ板ビル」のあった場所を見ながらしばし立ちつくしておりました。
 時代は、古き良き物を容赦無く取り除き、新たなものを生みながら進歩していくものなのでしょうが、私のとってはこのアパートは、やはり特別の物だったのだと今さらながら思ってしまいます。モデルカー・レーシングを楽しんだ思いで然り、60年代の熱き日本グランプリをTVで見たのもこのアパートでした。本当にありがとう「コープ板ビル」という心境でありました。
主宰者