The Story Of Shihomi Hosoya 
The Captain Of Team Toyota 
チーム・トヨタ キャプテン 
“細谷四方洋”


TOP : Shihomi Hosoya at Fuji SW in 2002.
(C) Photographs by Hirofumi Makino.
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( 11/Sep/2010 Last Up Date ) 
 コースにもえる“かげろう” 

 スピード・トライアルはエンジニアとメカニックとドライバーの努力がただ1車に結集されて初めて実現できるものだ。ドライバーは、その歯車の一つにすぎない。
 そのドライバーも、ひとりではどうにもならない。こんどの場合も5人のドライバーが2時間半づつの交替で78時間(10,000マイル)を乗り継いだ。いきおい、チーム・ワークが大切になってくる。
 一人が2000GTに乗り込む。次ぎのドライバーが待機する。他は休養だ。
 こんな周期は3日の間機械的に繰り替えかえされる。これを支障なく持続させるには、お互いの生活を侵害しないことだ。
日頃仲良くしているチーム・メートだけに、ちょっと辛かったが、これがチーム・ワークの根本で、我々は暗黙のうちにこの不文律を守り通した。
 レースでは「マシン6分にウデ4分」と言われる。しかし、スピード・トライアルでは「マシンがすべて」であった。我々乗り手側からいえば「いかにマシンの1部になりきるか」ということになる。
 マシンをフルに酷使してはならない。このロング・ランを計画通り実現するには、エンジンの回転もマキシマムの70%から80%くらいに押さえながら走ることが必要だった。わたしなども、ちょっと油断しているとラップ・スピードが上がりすぎる。ピットからは、たちまち「スピードを落とせ」のサイン。
アクセル・ペダルの踏み加減にはデリケードな神経を払わなければならなかった。
 その上、このような長丁場のトライアルでは、ちょっとしたミスが結果に重大な影響を与える。メーター類にも絶えず気をくばらなければならなかったことはいうまでもない。
 昼間のコース上では、かげろうが燃えた。雨中の走行もあった。いったん一定のペースにはいってしまえば、後は惰性が人間の心を支配する。退屈だ。しかし、これが怖い。
 わたしは、我が心と戦いながら走った。 

by Shihomi Hosoya 
 上のコメントは、1966年10月1日から4日まで行なわれた「トヨタ2000GT スピード・トライアル」にドライバーとして参加した当時の“チーム・トヨタ”キャプテン細谷四方洋氏が、同年発行の「AUTO SPORT」誌11月号に書かれたものを引用活用させて頂いたものである。(詳しいトヨタ2000GTスピード・トライアルについてはこちらをご覧頂きたい。

<細谷四方洋プロフィール>

 1938年3月8日広島県尾道市生まれ。幼い頃から自動車に憧れ、広島県の自動車学校教師として活躍。
 1963年5月、第1回日本グランプリ自動車レースに広島県尾道市よろパブリカで友人 岡本節夫氏の補欠ドライバーとして自費参加、3位入賞。
その技術を見込まれ、翌64年にトヨタ自動車のプロドライバーとして専属契約、技術部に所属。自動車の基礎知識の勉強やトレーニングに励む。
65年トヨタS800で第1回スズカ300Kmレース優勝、66年スズカ500Kmレース総合優勝、66年にはトヨタ2000GTで3個の世界記録と13個の国際記録を樹立。
1966年にオープンした富士スピードウェイで開催された「第3回日本グランプリ」では、本格的プロトタイプレーシングを相手にトヨタ2000GTで総合3位となる。
67年よりトヨタ2000GTで第1回富士24時間レースや富士1000Kmレースと初期の日本の長距離レースをすべてチームトヨタが制覇。
68年から、トヨタセブンの開発に取り組み、70年には世界初の(加減速の出来る)サーキットが走れる800馬力・最高速度360Km/h以上のターボセブン完成。
1973年日本中をパニックにしたオイルショックで「チームトヨタ」解散までキャプテンとして活躍、74年以降は、新車開発のアドバイザー・テストドライバーの教育やシステムの確立・関連会社の運転指導員の教育(ATDIA)・バス乗務員の運転教育・社員の安全運転教育(TDSS「トヨタ・ドライビング・セフティー・セミナー」の設立)等に携わる。


TOP : Shihomi Hosoya and his TOYOTA 2000GT at Fuji in 1966( Leftside).
Shihomi Hosoya, Minoru Kawai and Hiroyuki Kukidome at Fuji in 1970( Rightside).
(C) Photograph by Naofumi Ibuki.

その他
 ・トヨタ博物館(トヨタ2000GT・トヨタ 7)                                  復元アドバイザー。
 ・トヨタ・ヤング・ドライバーズ・クリニック                                             初代塾長。
 ・1990〜93年までの、外務省派遣・国連選挙監視団や総理府派遣のPKO要員
 (ナムバア・ニカラグア・アンゴラ・カンボディア・モザンピーク)  計6回の運転指導。
 ・1999年 警視庁運転免許課 (都道府県運転免許試験場技能検定員)  講師。
 ・2001年 中部管区警察学校 (中部管区機動隊第一大隊)                    講師。
現在
 ・愛知県警察学校教務課 (1980年〜現在まで校長表彰19回)               講師。
    表彰年度 ( 83・86・89・93・95・97・98・99・00・01・02・03・04・05・06・07・08・09・10 )
 ・(社)愛知県安全運転管理協議会 安全運転管理者法定講習会               講師。
 ・(社)愛知県指定自動車教習所協会 技能検定員法定講習会                  講師。
 ・トヨタモータースポーツクラブ(TMSC)                                            名誉顧問。

TOP : Shihomi Hosoya at Fuji in 1968.
主なレースリザルト
開催月日
出場レース
リザルト
マシン
1963.5.3
第一回日本グランプリ(鈴鹿)
3位
パブリカ
1964.5.3
第二回日本グランプリ(鈴鹿)
2位
パブリカ
1964.7.1-14
1964年アンポール、トライアル(オーストラリア)
完走
クラウン
1965.10.10
1965年KSCCチャンピオンレース
優勝
コロナ1600S
1965.11.7
第一回鈴鹿300Kmレース
優勝
トヨタS800
1966.1.16
第一回鈴鹿500Kmレース
優勝
トヨタS800
1966.3.26
第四回クラブマンレース(富士)
優勝
トヨタ1600GT RTX
1966.5.3
第三回日本グランプリ(富士)
3位
トヨタ2000GT
1966.6.26
第一回鈴鹿1000Kmレース
2位
トヨタ2000GT
1966.10.1-4
トヨタ2000GT 78時間スピードトライアル
(世界記録達成)
(谷田部国際試験場)
世界記録3
国際記録13
トヨタ2000GT
1967.4.8-9
第一回富士24時間耐久レース(富士)
優勝
トヨタ2000GT
1967.7.9
第一回富士1000Kmレース(富士)
優勝
トヨタ2000GT
1967.7.23
第一回鈴鹿12時間耐久レース(鈴鹿)
2位
トヨタ1600GT RTX
1967.10.1
第二回鈴鹿1000Kmレース(鈴鹿)
2位(Rクラス)
トヨタ2000GT
1968.6.30
全日本鈴鹿自動車レースGカップ(鈴鹿)
優勝
トヨタ7( 3000cc)
1968.8.4
第二回鈴鹿12時間レース(鈴鹿)
優勝
トヨタ7( 3000cc)
1968.10.1-21
コロナマークII 世界一周早回り
21日間
コロナマークII
1968.11.23
日本CAN-AM(富士200マイルレース 富士)
6位
トヨタ7( 3000cc)
1969.7.27
69年全日本富士1000Kmレース(富士)
3位
トヨタ7( 5000cc)
1969.10.10
69年日本グランプリ(富士)
5位
トヨタ7( 5000cc)
1971.11.3
71年オールスターレース(富士)
優勝
トヨタセリカ

TOP : Shihomi Hosoya and his Toyota 7.
SHIHOMI HOSOYA SHORT STORY -----

 「私が生まれたのは、広島県の尾道市。何しろ田舎ですからね、市内に自家用車というものが2〜3台しかなかった。当時は国産車はありませんでしたからね、T型フォードだの、シボレーが動いていたころです。
 それと、ヤンキーがバンバン走っていたせいで、乗ってみたい、走らせてみたい、と思っていましたが、自家用車を見ながら一生のうちにああいうクルマを持てるんだろうか、と思ったりしていましたね。」
 細谷四方洋、昭和13年生まれ、警察官だった父親を、広島市に投下された原爆で失って、敗戦時が小学校の2年生。
 もの心ついて、クルマを意識し始めた時、目に映ってきたのが、進駐軍のジープであった、と言う。
 「家のすぐ近くに、バス会社がありましてね、私はそこの車掌と仲良くなって、当時は木炭で走っていましたから、その木炭を燃やすために、ハンドルをまわして風を送る。それを手伝って、バス会社から駅まで回送するバスに、タダで乗せてもらうのが、とても楽しみでしたね。」
 そんな細谷が、長じて、尾道自動車学校で、構造の教鞭をとることになる。クルマ好きの少年から、自動車学校教師へ。現在では、ちょっと考えられそうもない経歴である。

 そして、第1回グランプリの噂は、広島県の自動車学校にも届いていた。
 「なんでも、スズカという所で、レースをやる、ということです。友人がそのレースにパブリカ広島からクルマ提供を受けて出場すると言う。モータースポーツに対する知識はまるでありませんでしたが、オレも出たいなぁ、とは思いましたね。
そうこうするうち、その友人が家庭の事情で出場できない羽目になった。そのかわりに、私が出場する事になったわけです。」
 もちろん、自家用車も、レース費用もありはしない。オートバイか、スクーターに乗るのが精一杯のモータースポーツでありレジャーであった。
 そんな男が、第1回グランプリに出場する。それも開幕3週間前に決まっただけの話である。その時点では、ライセンスすら持っていなかったのだ。今日では考えられないレース創成期談ではある。
 「なんでも講義を受けなければ出場出来ないらしいとは聞いていたんですが、これがライセンスをもらうためなんですね。私にしても、何の知識もないし、グランプリの噂を聞いたのが一月前、代理出場することになったのが3週間前と言うわけです。ただ、当時は誰もがかいもくわからないと言うのが普通でしたからね。他人に出来る事なら、オレにも出来るだろうという確信だけが頼りでしたね。」
 本番前にサーキットを走ったのも、わずかに2回。あの曲折の多いコースを走ってどうしてスタート地点はもどってくるのかピンとこない、ということでグランプリの700ccクラスに出場する。
 当時は、ほとんどの人が、見よう見まねでレースにのぞんでいた。ラジアルまがいのタイヤをつけている者がいれば、細谷はそれを初めて見て、こういうタイヤもあるのかと感心していたのが水準であった。
 それでも、クラス3位、それも、1位から3位までの差が、0.2秒、4位以下をブッチぎっての成績であった。
 「広島からひとりで来て良くやったと思われたようですね。それで、広島へ帰ってきたらクルマを借りたパブリカ広島から、レースをやるんならウチへこないかという誘いがありまして、セールスマンを約1年やりました。35台くらい売りましたかね。パブリカが、当時35〜36万円という時代でしたからね。」
 そして、第2回グランプリの直前に、トヨタから話があって、オーディションを受け、テスト・ドライバーとして入社したわけです。
 しかし、当時は自動車学校の月給が7000円くらいで、家内が美容院を経営していました。いわば髪結いの亭主でしたから家内の反対もありまして、豊田市に引っ越すまでは本当に大変でした。」
まして、レース。さらにテスト・ドライバーという職業がどういうものであるのか、一般の人たちがほとんど知らない当時の事である。
 しかし、どうやら周囲を説得してトヨタへ入社。以来、1600GT、2000GT、SRなど、すべてのクルマをテスト、開発して今日に至っている。
 「だいたい、レースはテストの延長である、というのが当時の河野部長の意見だったわけです。
ただ、私にとっては、なにごとも初めてのようなことで、ペースをつかむのに、2年ぐらいかかりましたね。とにかく、当時はテストカーをひっくり返すと、すべてダメになる、一から出直し、というような具合でしたね。
 それでも、3回ほどひっくり返してしまいました。怪我こそありませんでしたが、今になって考えてみると、そういう時は必ずテングになっているんですね。」
 第3回グランプリに、2000GTで出場して、3位に喰い込む。この2000GT、細谷にとっては、なにかと思い出の深いクルマである。このクルマで、3つの世界記録と、13の国際記録を彼は作っているのだ。
 そして、トヨタには失った3人のレーサーがいる。浮谷東次郎、福沢幸雄、そして、川合 稔・・・。
 「同僚を失った悲しみはあります。しかし、冷たいようですが、他人は他人、自分は自分ですからね。だからといって仕事辞めようかなどと考えたことは一度もないです。それは全然別です。
 とにかく、トヨタ10年(1972年12月当時)のモータースポーツは、すべて私が第一頁を飾るかっこうになって今日まできました。クルマに関しても、犠牲があってこれまでできているというのが正直なところでしょう。」
 あと10年は第一線で走る。それを終わってもテスト走行は続けたいという細谷。
しかし、第1回グランプリ当時から今でも走っているのは、テツ(生沢 徹)と私ぐらいになってしまったとも細谷はつぶやく。

 注)上のコメントは、1972年三栄書房発行の「AUTO SPORT」誌12/1 NO.106 「私のフレッシュマン時代 木炭車が走っていたころ 細谷四方洋」より引用活用させて頂いたものである。
 


TOP : Shihomi Hosoya and Toyota 2000GT.

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(C) Photographs by Naofumi Ibuki.
(C) Photographs by Hirofumi Makino.
Special thanks Shihomi Hosoya.