THE SPECIAL REPORT OF MODEL SPEED LIFE
THE ALL OF THE 60's STOCK CAR RACING !! 
60年代日本モデルカー・レーシングにおける
“ストックカー・レーシング”の歴史

TOP: 60's STOCK CARS by MODEL CAR RACING.
There were no soap companies spending millions on sponsorships. 
There were no tobacco or beer companies plastering their logos all over the race cars.
There was only NASCAR and the car companies, 
and the car companies were doing enough spending for everybody.

PART 1
PART 2
PART 3

 
 1965年は、日本中がモデルカー・レーシング・ブームで沸き立った年ではなかったでしょうか(いや、ヴェンチャーズと加山雄三のブームもあったぞ!とおっしゃる方もいらっしゃると思いますが・・・)。当の私は、小学校5年生であり、プラモデルや鉄人28号ワッペン、そしてエイトマン・シールなどを無我夢中で集めていた頃だと記憶しております。
 その頃、廻りでは、「モデルカー・レーシング(スロットカー)」を親に買ってもらう裕福(!?)な友人たちがおり、私は、横目で見ぬ振りをして、漫画や学級新聞を作りながら平静を装っておりました。当時、1台800円(日本製)〜1,200円はしておりました“レーシングカー(当時は、単にレーシングカーと呼んでました)”は、高嶺の花で、私のような公団住宅に3人で住んでおります貧民家庭では、到底買ってもらえないアイテムでありました。
ところで、そんな頃の日本モーター・スポーツはどうなっていたかと申しますと、すでに1963年に「第1回日本グランプリ」が盛大に開催され、日本モーター・スポーツの基盤が出来上がろうとしていたころでありました。
 その一方、1964年に一部のファンが独自に作り始めた「モデルカー・レーシング」がアメリカからの影響もあり、ブームの兆しを見せてきていたのも確かそんな時期でありました。そして、その大ブームの引き金を引いたのは、当時明治製菓が“マーブル・チョコレート”の景品として出していた“レーシングカー・セット”ではなかったでしょうか(右画像)。
 その後の歴史は、ここであえて書く必要はないと思いますので、省かせて頂きます。
さて、当時を体験された方だったらお分かりだと思いますが、あの“ダッコちゃん”や“フラフープ”を凌ぐこのモデルカー・レーシング大ブームで日本中が沸いた1965〜66年において、一部のマニアの皆さんが、それこそ独自の研究で作り上げたハイ・レベルなモデルカー・レーシングがありました。それが、今回御紹介する“アメリカン・ストックカー”なのであります。
 日本におけるストックカーの歴史を語る時に、どうしても忘れることが出来ないのが1966年初めに上映されたアメリカ映画「レッドライン7000」ではないでしょうか。
この映画が上映される以前にも、一部のマニアの方がこのアメリカン・ストックカーを自作して、モデルカー・レーシングを楽しまれていたようですが、実際にモデルカー・レーシング・ファンの方々にその面白さを伝えたのは、まさにこの映画だったと思います。
手持ちの資料によりますと、日本で初めてのモデルカー・レーシングのストックカーが正式な(!?)レースを行なったのは、1965年9月29日、東京都中野区にありました“中野サーキット”で開かれた「東京ストックカー・モデル・レーシング・チーム主催 第1回オープン・レース」が最初だったのではないかと思われます。このレースには、後の日本モデルカー・レーシング連盟の中心的人物となる方々が大勢参加されていました。まさに、ストックカー・レーシング・レースの曙だったわけです。
その時のコメントが、1965年11月に発売された「モデル・スピードライフ」誌に載っておりましたので、引用活用させて頂き御紹介します。
「ストックカーについて・・・・・・・
 最近マニアの間で人気が出てきたこのストックカーとは、市販されている1/25のプラスチックモデルのボディを使用して、レーシングカーを作っています。このストックカーを操縦して一番の魅力はなんといっても、その走りっぷりが実感そのもの横転したとき、またスピンしたときなど、実物のストックカーレースの映画を思い出すほどムードがあります。
その魅力につかれた人々でできた“東京ストックカーモデルレーシングチームが発足したのです。
ストックカーのムードを出すために規約を定め、各会員のゼッケンNO.を車につけレースに参加するようになっているのです。」
 さらに、時を同じくして誕生した「デイトナ・ストックカー・クラブ(D.S.C)」が拍車をかける形で、ストックカーレースはGTクラスのレースに匹敵するくらいの盛り上がりを見せていったのです。
 ところで、この2つのクラブは、とても対照的なクラブだったといわれています。
「東京ストックカーモデルレーシングチーム(T.S.M.R.T)」は、限定メンバーのクローズド・クラブで、反対に「デイトナストックカークラブ(D.S.C)」は、誰でも入会できるオープンクラブでありました。しかし、両方とも車体規約はほとんど同じであることから、日本モデルカー・レーシング連盟の正式規約ともなっていました。
 そして、1965年秋田書店発行の専門書「モデルカー・レーシング入門」には、当時のストックカーについて次にのようなことが書かれておりました。ここでもやはり、引用抜粋させて頂きたいと思います。


“ストックカーボディの作り方” 
 最近マニアの間で流行してきたストックカーとは、どのような車でしょうか。これは一口にいえば、ふつう町を走っている乗用車のような量産車のことです。アメリカで流行している実物の車のストックカーレースは、NASCAの規定によれば、過去5年以内に作られたアメリカ製の量産車となっていますが、モデルカーの場合は、一般の乗用車全部をストックカーに入れてよいと思います。しかし、最近東京に誕生した日本ストックカーモデルレーシングクラブのように、大変厳しい規則を設けているクラブもありますから、そのようなクラブのレースに参加する場合は車種が制限される場合もあります。
 このストックカーに関しては、レーシング用のキットが市販されていません。モノグラムから2,3出ていますが、年式が古いのであまり魅力がありませんし、作るとなればプラモデルのキットから捜すより手はないのです。ところが、このプラモデルのキットには、新しい車がたくさん用意されています。モノグラムAMT、レベル、ジョーハンなどで、65年型のアメリカ車の主なものがほとんど揃っている感じです。
キャデラック、ビュッイック、クライスラー、ポンティアック、オールズモビル、インペリアル、フォード、シボレー、ムスタングからシェビィIIまであります。レーシングモデルには見られない種類の豊富さと仕上げの良いものが揃っています。
 それでは、なぜストックカーレースに、アメリカ製大型車が使われるかといいますと、まず型の大きいことが魅力なのです。1/25のスケールでも車体の幅は80mmいっぱいまであり、それだけトレッドが広くとれます。また全長21cmから22cmあり、スポーツモデルより5cmぐらい長くなっています。この大きな車体にトルクの強い大型モーターを積んで1せいに走らせると、大変重量感と迫力があります。
また、車体が大きいと安定感があり、しかもダイナミックな走り方をしますから、一番実感のあるレースをすることが出来ます。


 
 当時を回想いたしますと、私自身小学校6年生の鼻垂れ小僧でありましたので、1/25スケールで、プラモデルを改造して作り上げるストックカーは、まさに大人のモデルカー・レーシングのように感じておりました。事実私は遂にストックカーの魅力をわからないままその黄金の60年代を通り過ぎてしまいました。
  ところで、このストックカーが日本モデルカー・レーシングにおいて、正式種目になったのは、1966年3月26〜27日に全日本モデルカー・レーシング連盟主催で行なわれた「第2回オール関東モデルカーレーシング選手権大会」が最初でありました。
 画像は、1966年2月14日に東京の銀座サーキットで行なわれたパラマウント映画「レッドライン7000」封切を記念して開かれた“デイトナ・ストックカー・クラブ”主催のレースであります。なお、1〜3位の入賞者には、パラマウント映画より賞品が贈られたとのことでした。やはり、この映画による影響は、計り知れないものだったことが改めてわかるエピソードでありました。
 さて、1966年当時のストックカー・モデルカー・レーシング規約は、いったいどんな内容であったのでしょうか。
日本モデルカー・レーシング連盟として、初めてストックカーレースについての規約が出来上がったのは、1966年3月に行なわれた「第2回オール関東モデルカーレーシング選手権大会」直前でありました。
前記の通り、この規約は、日本初のストックカー・クラブ「東京ストックカーモデルレーシングチーム(T.S.M.R.T)」と「デイトナ・ストックカー・クラブ(D.S.C)」の規約を基に作られておりました。
 
年代
規約内容
1966.3 (初種目のため、今後正確な規格を制定させる必要上、特にボディについては厳格な規格とする)
1) ボディは今回に限り、アメリカ「AMT」社、「JO-HAN」社製に限る。また、クリヤーボディは認めない。
2) 年式は、現在時より5年以内(61年〜66年式)とする。
3) 実車のホイールベースが116インチ(2900mm)以上のもの。
4) フロントおよびリヤグリルの変更は良いが、フェンダー、特にホイールアーチの改造や変更は一切認めない。
5) ウインドウを通してフレームが見えてはならない。
6) オープン・タイプの車は認めない。
7) ドライバー(ステアリング・ホイールを持ったドライバーが搭乗してなければならない)、その他は、他種目に準じる。
8) 出場可能な車種(ABC順)
a) ビュイック・・・ワイルドキャット、エレクトラ。
b) キャディラック
c) シボレー・・・インパラ。
d) クライスラー
e) ダッジ・・・ボララー。
f) フォード・・・ギャラクシー。
g) インペリアル
h) リンカーン
i) マーキュリー・・・モントクレア、パークレーン。
j) オールズモビル・・・98、88シリーズ。
k) プリムス・・・フューリー。
l) ポンティアック・・・ボンネビル、グランプリ。
1966.5  ボディ選択が広がる。
AMT,JO-HANの他に、M.P.C、ソリット(プラスチック・モデルのみ)が認められる。
1967-68 1) 車幅についての規制は、特になし。
2) タイヤサイズ・・・25-33mmに規制される。
3) ボディ規制・・・クリヤーボディの使用は認められない。
a) 田宮模型、長谷川製ボディを使用の場合
*ボディ、フロント、リヤ・グリルは削ってはならない。
*ウインドーグラスは純正のものを使用しなくてはならない。
*シャーシマウントは変更しても良い。
*ボディのバリ落しは認められる。
b) AMT, JO-HAN, MPC製のボディを使用の場合。
*ボディ本体は、30gまでに削ることが出来る。
*前後グリルは削ってはならない。
*ウインドーの材料は自由である。
*ボディ本体は、全面的に削ったものでなくては認められない。
(以上の内容は、1967年に開催された「第3回全日本モデルカーレーシング チーム対抗レース特別規則書」で採用された規約であります。また、この内容は、当時の「デイトナ ストックカークラブ」の規約そのものでありました。)
1969-70  '69年度 日本モデルカーレーシング連盟規約
 1/25 ストックカー・クラス
*実車が米国製フルサイズ乗用車で、オープンカーおよびワゴンなどは含まれない。
*実車のホイールベースが2,9m以上で、過去5年以内に作られた量産モデルでなければならない。
*車両のボディ最大幅は83mm以内とする。
*タイヤサイズは、前輪25mm以上、後輪25mm以上とする。
★ストックカーのボディ制限を廃止★
 今回の大きな改正点のひとつです。従来規定されていたボディ・メーカーの指定やボディ削りの禁止など一切の制限が廃止されました。これによって、クリヤー・ボディの使用が認められたことと、モーター・ライズカーのボディも使用出来るようになったのです。
 これは、新たにメーカーからハード・ボディのストックカーが発売されないため、現在使用しているボディが旧型となってきたため、やもうえないといえます。
★ストックカー製作上の規定★
 車高を低くする為、必要以上にボディ下部を切るのを防ぐ為、ドア・ラインから2mm以上残すことが新たに規定されました。また、前後バンパーやラジエタ―グリルを装備することも規定されました。
 ストックカーは、乗用車のレースではなく、その雰囲気を楽しむのである為、ストックカーのイメージがなければならない。したがって、ルーフにゼッケンを必ず付け、しかも数字の大きさをルーフ幅の1/2と規定されたのです。
1971-  '71年度 日本モデルカーレーシング連盟規約
*実車が米国製フルサイズ乗用車で、オープンカーおよびワゴンなどは含まれない。
*実車のホイール・ベースが2,9m以上で、過去5年以内に作られた量産モデルでなければならない。
*車両の最大幅は83mm以内とする。
*タイヤサイズは前輪19mm以上、後輪は22mm以上。
*ドア―下部ラインは、必ず残すこと、また前後のバンパーおよびラジエタ―グリルは、必ず装備されていなければならない。
*ゼッケンはルーフのほかに、両サイドにも必ずつけなければならない。なお、ルーフの数字の大きさは、少なくともルーフ全幅の1/2以上でなければならない。
*なお、連盟規約は'72年度からは、インターナショナル・ルールに準じてつくる。
 
 以上が私が知りうるストックカーレース規約であります。
また、これ以降についても規約改正があったと思われるのですが、私自身大学生となり、モデルカー・レーシングとは遠どくなっていた関係上、正直言ってわかりかねますので御理解ください。
さて、この中で注目されることは、1969年からクリヤー・ボディが認められたことではないでしょうか。
それ以前まで、頑固としてプラボディ(メーカー指定)に固持していた規約が、諸般の事情で改定となり遂にクリヤー・ボディでの参加が認められてしまったのでした。
ここに当時のクライマックス社製クリヤー・ボディの製作記事が「模型とラジオ」誌“モデルカー・レーシング教室”で紹介されておりましたので御紹介いたします。
 
 


TOP:It's clear bodys of 1/25 stock car by Climax in 1969.
(A Model Speedlife of modelcar magazine in June/1969.)

 上の画像は、1969年6月に発売された「模型とラジオ」誌の企画ページとして生まれ変わっていたモデル・スピードライフこと“モデルカー・レーシング教室”に紹介されている、クライマックス社製69年型1/25スケール「フォード・トリノ」と68年型「マーキュリー・サイクロン」の製作記事であります。
このことから推測するには、すでに規約改正のことがクリヤー・ボディ・メーカーに事前に(または、相談)伝わっていた証拠ではないでしょうか。これにより、より早い規約実行が出来るわけでありますから、もし仮にその通りだとしたら、当時の日本モデルカー・レーシング連盟の行動は理解出来るものだと思います。
しかし、1971年以降のストックカー・ボディの発売については、その資料がありませんので、どのような車種がメーカーより発売されたのかは、今だ謎のままであります。どなたか御存じの方がいらっしゃいましたら、是非お教え頂ければ幸いです。
 私にとっての「‘60sアメリカン・ストックカー」は、永遠の憧れでありました。そして、いつまでも私にとって、カリスマ的なモデルカー・レーシングであり続けて欲しいと切に思うこの頃であります。
PART 1終わり
(PART 2)につづく

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(C) 2/JAN/2001 Textrports by Hirofumi Makino