“青春の息吹き 1963年第1回日本グランプリ”
日本における本格的なモータースポーツの夜明け、1963年第1回日本グランプリが三重県鈴鹿サーキットで開かれた。
主催者も初めて、もちろん走るドライバーも初めてという初めてづくしの日本グランプリであった。
もちろん、細谷四方洋もドライバーとしてレースに出場するのは初めてである。出場する経緯については、別のページに譲るとして、まずはこの記念すべきデビューレースを振り返ってみよう。
第1回日本グランプリは、1963年5月3日〜4日の2日間で行なわれ、全11レースという現在では考えられないくらいの多くのレースが行なわれた。
軽自動車からレーシングスポーツカーまでのクラスは10数万人が押し寄せたというこの大会を大いに盛り上げたことだったろう。
細谷は、この中の5月4日第3レースとして行なわれたC-II
ツーリングカーレース(400cc-700cc)に、トヨタパブリカで出場した。
予選2位でスタートした細谷は、初体験ながら再三トップに立つ活躍を見せたものの、トヨタ自動車の支援を受けたパブリカには遂に勝つことが出来ず3位でフィニッシュした。しかし、トップとの差は、わずか0.4秒!!という僅差であった。
TOP : C-II Class Machines in Suzuka 1963.
トップを走る細谷四方洋とパブリカ
(C) AUTO SPORT
Saneishobou Ltd,co.
Special thanks
Shihomi Hosoya.
トップのゼッケン21番は私である。実は、友人の岡本節夫氏の補欠ドライバーとしてエントリーしていたのだが諸般の事情で私が日本グランプリを走ることになった。上の写真で、私のパブリカだけホワイトリボンタイヤを履いていたのですぐに判別出来る。
後続のパブリカは、トヨペット同好会からの参加チームで、車両整備は、一手にトヨタサイドで行なわれていた。
メーカーチームの前を走るのは実に気分の良いものである。ただ、頭に来るのは最終コーナーを出てメインスタンド前に来るとあっさりぶち抜かれてしまう。メーカーの車は抜群に速い。
4台目からのパブリカは1周ごとに100メートル以上はなれ、そのうち見えなくなった。上の写真は、間違いなくスタート直後のヘアピンカーブ通過時である。
第1コーナーから第3コーナーまでには抜かれた前車を抜き返して又先頭を走ることになる。このような状態を最後まで繰り返して、ゴールでは3台もつれてチェッカーを受けた。私は残念ながら3位であったが、地方のドライバーがメーカーの車の前を走ったということがトヨタに認められ、後の専属ドライバーとしての道を開いてくれた。
この車を提供して下さったパブリカ広島(現カローラ広島)殿と私を補欠ドライバーに指名してくれた岡本節夫氏に、この場を借りて深く感謝致します。
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