(C) Photograph by Keiman Kota. Special thanks Shihomi Hosoya. |
“ミニカー展〜細谷四方洋の世界” 開催される!!
1960年代、日本の自動車産業は、飛躍的な躍進を遂げた。誰もが世界に追いつけ、そして追い越せと無我夢中だった高度成長時代の日本。メイクアンドトライの繰り返しにより蓄積されたデータは自動車産業の底上げとなり、後に世界の頂点に登りつめた日本自動車産業躍進の鍵となったのだ。
今回、紹介する“細谷四方洋”氏は、60年代、トヨタ自動車のワークスチーム“チーム・トヨタ”のキャプテンとして活躍されていた。そんなキャプテン細谷氏とチーム・トヨタの活躍は、後のトヨタF1に通じるトヨタモータースポーツの基盤を作り上げたと言っていいのではないかと思う。
会場や期間は下記の通りである。 開催期日 9月2日〜30日(第2水曜日、各週木曜日休館)
|
TOP : The world of Shihomi Hosoya at an atolier citroen in 2005. (C) Photograph by Keiman Kota. |
日本モータースポーツの曙 “第1回日本グランプリ”
1963年5月3日〜4日、日本初の本格的サーキットとして1962年に誕生した三重県鈴鹿サーキットにおいて記念すべき「第1回日本グランプリ」が開催された。初めての本格的レースということでドライバーもマシンも手探りの状態での参加であった。
TOP : The 1/43 scale modelcar of Shihomi Hosoya and his Toyota Publica. (C) Photographs by Shihomi Hosoya. (C) Painting by Keiman Kota. |
1966年、最初の鈴鹿500Kmレース
1966年1月16日、当時日本モータースポーツ界最大の長距離レースとして注目されていたのが「鈴鹿500Kmレース」だった。
このレースにエントリーしたマシンは、滝進太郎のロータス・レーシング・エランを筆頭に、プリンススカイライン2000GT、ホンダS600、コンテッサ1300クーペなどで、変り種としてヒルマン・インプ、MG-Bなどが花を添えるという感じである。
スタート方式は、当時ル・マンなどで使われていた通称「ル・マン式スタート」だ。
|
1966年、第3回日本グランプリ そして、トヨタ2000GT----
諸般の事情で開催が中止となった鈴鹿サーキットでの第3回日本グランプリは、新しく誕生した富士スピードウェイに舞台を移し、1966年5月3日に盛大に開催された。それまでの日本グランプリとの違いは、FIA国際ルールを基本に、将来のマニファクチャラーズ世界選手権開催を念頭においたプロトタイプカーレースによるグランプリとなったことだ。
レースは、予想通りプリンス勢とポルシェによるデッドヒートに終始したが、細谷のトヨタ2000GTがレース距離360Kmを無給油で走りきり、総合3位に入賞したのは賞賛に値する結果だったといえよう。 TOP : Toyota 2000GTs in '66 Japan GP. (C) Modeling by Q-MODEL. (C) Photograph by Shihomi Hosoya. |
日本初の24時間レースに勝利!!
世界でもあの“ル・マン”と“デイトナ”しかない24時間耐久レースが、1967年4月8日〜9日に亘って富士スピードウェイで開かれた。むろん日本初の24時間レースである。
夕方4時にル・マン式スタートでまずはトップにたったのは、細谷組のナンバー1の2000GT。その後を津々見組が追う展開。しかし、細谷のマシンはトラブルを抱え、午前零時からの1時間に3回もピットイン。その影響で、津々見組が首位に立つ。
TOP : The winning Toyota 2000GT in '67 Fuji 24hours race. (C) Painting by Keiman Kota. |
GO
TO NEXT PAGE
次のページへ続く
(C) Painting by Keiman Kota.
(C) Photograph by Shihomi Hosoya.
(C) Modeling by Q-MODEL.
Speial thanks Atolier Citroen.