(C) Photograph by Keiman Kota.
Special thanks Shihomi Hosoya.
 “ミニカー展〜細谷四方洋の世界” 開催される!!

 1960年代、日本の自動車産業は、飛躍的な躍進を遂げた。誰もが世界に追いつけ、そして追い越せと無我夢中だった高度成長時代の日本。メイクアンドトライの繰り返しにより蓄積されたデータは自動車産業の底上げとなり、後に世界の頂点に登りつめた日本自動車産業躍進の鍵となったのだ。
また、同時にモータースポーツというジャンルの中で、切磋琢磨した国産メーカーの努力も忘れる事は出来ない。
60年代後半の日本モータースポーツ界の頂点を極めた“日本グランプリ”の主役は、まさしく国産メーカーであった。そして、その主役を争ったのはトヨタとニッサンであり、二大メーカーの凌ぎあいは日本グランプリのハイライトだった。

 今回、紹介する“細谷四方洋”氏は、60年代、トヨタ自動車のワークスチーム“チーム・トヨタ”のキャプテンとして活躍されていた。そんなキャプテン細谷氏とチーム・トヨタの活躍は、後のトヨタF1に通じるトヨタモータースポーツの基盤を作り上げたと言っていいのではないかと思う。
そして今回、当時の細谷氏とチーム・トヨタの活躍を、なんとミニチュアカーによって再現して見せたギャラリー展が開かれたのだ。
豊田市で宝石貴金属加工販売業を手がける“あとりえシトロエン”が主催している「ミニカー展〜細谷四方洋の世界」がそれだ。
1963年に開催された第1回日本グランプリで、プライベート参加ながらツーリングカーレース(400cc-700ccクラス)で3位入賞を果たした細谷氏のトヨタパブリカ。1967年にチーム・トヨタとして参加したスピードトライアルでのトヨタ2000GT。日本初の24時間レース「富士24時間レース」でのトヨタ2000GTのゴールシーンなど興味あるジオラマ作品が多数出品されている。
興味のある方は是非会場を覗いて見ることをお勧めする。

 会場や期間は下記の通りである。

開催期日 9月2日〜30日(第2水曜日、各週木曜日休館)
開催場所 あとりえシトロエン内ギャラリー
問合せ先 TEL/FAX 0565-80-5767 E-mail : keiman@hm2.aitai.ne.jp
 


TOP : The world of Shihomi Hosoya at an atolier citroen in 2005.
(C) Photograph by Keiman Kota.
 日本モータースポーツの曙 “第1回日本グランプリ” 

 1963年5月3日〜4日、日本初の本格的サーキットとして1962年に誕生した三重県鈴鹿サーキットにおいて記念すべき「第1回日本グランプリ」が開催された。初めての本格的レースということでドライバーもマシンも手探りの状態での参加であった。
細谷四方洋もひょんなことからプライベートとしてパブリカで出場した。詳しくはHP「チーム・トヨタキャプテン 細谷四方洋」をご覧頂くとして、その時の感激のシーンをミニカーで再現されているので紹介したい。



TOP : The 1/43 scale modelcar of Shihomi Hosoya and his Toyota Publica.
(C) Photographs by Shihomi Hosoya.
(C) Painting by Keiman Kota.
 1966年、最初の鈴鹿500Kmレース 

 1966年1月16日、当時日本モータースポーツ界最大の長距離レースとして注目されていたのが「鈴鹿500Kmレース」だった。
JAF公認の国際級の長距離自動車レースとしては、この鈴鹿500Kmレースがわが国で最初であった。ちなみにその年に行なわれた「第3回日本グランプリ(富士スピードウェイで開催)」は360Kmのレースだったことからもわかる。
そして、堂々このレースを制したのが細谷四方洋ドライブのトヨタスポーツ800であった。

 このレースにエントリーしたマシンは、滝進太郎のロータス・レーシング・エランを筆頭に、プリンススカイライン2000GT、ホンダS600、コンテッサ1300クーペなどで、変り種としてヒルマン・インプ、MG-Bなどが花を添えるという感じである。
予選は、車の実力からして滝進太郎のロータス・エランがトップ、続いて排気量に勝るスカイライン、実績のホンダS600と続き、細谷四方洋は6位でスタートすることとなった。

 スタート方式は、当時ル・マンなどで使われていた通称「ル・マン式スタート」だ。
車と反対側でスタートを待つドライバーが、日の丸フラッグが振られた瞬間、コースを横切り車に乗り込む。そして、エンジンを始動して早いもの順にスタートしていく。
予選1位の滝のエランは、スタートに失敗。大きく遅れる。1周目はスカイラインとホンダ勢、そしてトヨタスポーツ800の田村が続く。
3周目、満を持して滝のエランがトップを取り独走体制を固める。
細谷が2位に上ったのは84周レースの丁度半分を消化した40周目前後だった。細谷の後に田村三夫と多賀弘明のトヨタスポーツが続く。
そのままゴールかと思われた70周目ごろ、突然滝のエランがピットイン。トラブルである。
そして、栄光のゴールを奪ったのは細谷四方洋のトヨタスポーツ800であった。細谷は総合とGT-Iクラスのダブルウインで国内初の耐久レースを制するという栄光を手にした。



TOP : The winner Shihomi Hosoya's Toyota Sport 800 in '65 1st Suzuka 500Km race.
(C) Photographs by Shihomi Hosoya.
(C) Painting  by Keiman Kota.

 1966年、第3回日本グランプリ そして、トヨタ2000GT----

 諸般の事情で開催が中止となった鈴鹿サーキットでの第3回日本グランプリは、新しく誕生した富士スピードウェイに舞台を移し、1966年5月3日に盛大に開催された。それまでの日本グランプリとの違いは、FIA国際ルールを基本に、将来のマニファクチャラーズ世界選手権開催を念頭においたプロトタイプカーレースによるグランプリとなったことだ。
 正式にこのレースから“チーム・トヨタ”としてスタートしたトヨタ自工チームは、細谷四方洋をキャプテンとしチームの士気を高め、田村三夫の2名を翌年市販予定のトヨタ2000GTのレースバージョン(アルミボディ)でエントリーした。
しかしながら、プリンスR380やポルシェカレラ6などのミッドシップレーシングカーが多数エントリーしているこの日本グランプリに、プロトタイプカーを持たないトヨタは、あくまでもトヨタ2000GT開発という観点からフロントエンジンリヤドライブという不利なマシンによる参加を決定した経緯があった。

 レースは、予想通りプリンス勢とポルシェによるデッドヒートに終始したが、細谷のトヨタ2000GTがレース距離360Kmを無給油で走りきり、総合3位に入賞したのは賞賛に値する結果だったといえよう。


TOP : Toyota 2000GTs in '66 Japan GP.
(C) Modeling by Q-MODEL.
(C) Photograph by Shihomi Hosoya.
 日本初の24時間レースに勝利!!

 世界でもあの“ル・マン”と“デイトナ”しかない24時間耐久レースが、1967年4月8日〜9日に亘って富士スピードウェイで開かれた。むろん日本初の24時間レースである。
トヨタは、日本グランプリがマニファクチャラーズ世界選手権と同じレギュレーションをとりながらもスプリントレース的なレースを続けている現状を踏まえ、一発勝負の日本グランプリに賭けるニッサンとは違い、耐久レースに多く出場することを優先した。これによりより多くのレースからのノウ・ハウを市販車にフィードバック出来ると考えたからだ。さらに、将来的に世界の耐久レースに挑戦するという目標もあったことはいうまでもない。
さて、日本初の24時間レースにキャプテン細谷四方洋とチーム・トヨタもむろん挑戦することになった。2週間前に鈴鹿500Kmに勝利を収めたばかりのチーム・トヨタとトヨタ2000GTは、前年の72時間タイムトライアルの実績も踏まええて、この24時間レースに臨んだ。
ポルシェカレラ6などのプロトタイプカーこそエントリーしなかったとはいえ、24時間レースではチーム・トヨタが必ず勝てるという保障は何もない。それほど24時間レースとは過酷なレースなのだ。
チーム・トヨタから出場した2000GTは2台。細谷四方洋/大坪善男組と津々見友彦/鮒子田 寛組だ。

 夕方4時にル・マン式スタートでまずはトップにたったのは、細谷組のナンバー1の2000GT。その後を津々見組が追う展開。しかし、細谷のマシンはトラブルを抱え、午前零時からの1時間に3回もピットイン。その影響で、津々見組が首位に立つ。
その後2号車にもトラブルが発生して、再び細谷組が首位に返り咲く。
やがて夜が明けてトップは変らず細谷組。3番手に田村三夫/川合 稔組のトヨタスポーツ800が上ってきている。
レースは、24時間レースとは思えないほど安定した展開でチーム・トヨタが1〜3位を独占している。そして、ゴールが近づく頃、チーム・トヨタは、3車を整列するように各ドライバーに命じる。これは、今年のデイトナ24時間レースにおいて、後にデイトナフィニッシュと言われることとなるフェラーリ330P4の3車編隊ゴールシーンを再現するつもりなのだ。
そして、栄光のゴール!!ゴール前、川合のスポーツ800がトラブルでついてこれないというハプニングがあったものの、他のスポーツ800が入り無事ゴールシーンは再現された。そして、細谷は、またしても日本初のレースに優勝するという快挙を達成して見せたのだった。
 下のミニチュアカーのよるゴールシーンは、まさに栄光のゴールの再現である。


TOP : The winning Toyota 2000GT in '67 Fuji 24hours race.
(C) Painting by Keiman Kota.

GO TO NEXT PAGE
次のページへ続く



GO TO TOP

GO TO TOP PAGE

(C) Painting by Keiman Kota.

(C) Photograph by Shihomi Hosoya.

(C) Modeling by Q-MODEL.

Speial thanks Atolier Citroen.