THE ROOM OF JOE HONDA
The 2nd exhibition gallery of a treasured by Joe Honda.

第2回 ジョー・ホンダ 秘蔵写真展 開催記念企画
「歴史の中の1/250秒」

“ジョー・ホンダにとっての60年代スポーツカーとは?!”


 日本が誇るプロ・モーター・スポーツカメラマンでありモーター・ジャーナリストとしても今なお活躍されている“ジョー・ホンダ”氏が来る11月3日から2週間、Mr.CRAFT 8Fギャラリーにおいて、2回目となる「ジョー・ホンダ 第2回秘蔵写真展 歴史の中の1/250秒」を開催される事になりました。
今回、そのテーマである「60年代のスポーツカーたち」について、我がくるま村取材班がジョー氏に、お仕事でイギリスに発たれる前日の10月20日にお時間を頂き、第2回目となるインタビューをしてまいりました。
以下は、そのインタビュー記事でありますが、特に私も大好きでありました60年代後期のスポーツカーたちが今回の主役と聞いて、是非その当時の印象などをお聞きしたく今回のインタビューとなったわけであります。
現在の私の頭脳を構成しております沢山のスポーツカーたちの姿は今考えてみれば、ほとんどジョー・ホンダ氏の撮られた写真であったわけで、まさにジョー・ホンダ氏は現在の私を作ってくれた恩人とでも申しましょうか、とにかくジョーさんなくしてこのHPは作れなかったと言っても過言ではない大恩人であります。
では、支離滅裂なインタビューではありますが、下手な質問にはどうか目をつぶって頂ければ幸いです。
主宰者

The 2nd exhibition gallery of a treasured by Joe Honda.
 DATE : November 3rd ( Sat) - 18th ( Sun)
 PLACE : Mr.CRAFT 8F
 TIME : 12:00pm - 22:00pm ( Week day). 
 11:00am - 22:00pm ( Week   end). 
 ADMISSION FEE : \300 
 第2回 ジョー・ホンダ氏にインタビュー!!
2001年10月20日
 M(主宰者): またまたお忙しい中、今度開かれる第2回 秘蔵写真展についておうかがいしたいと思いますので宜しくお願いします。
 
J(ジョー・ホンダ): こちらこそ宜しくお願いします。

 M : まず、今回の写真展ですが、1960年代のスポーツカーを中心としたものだと聞いているのですが!?
 

J : そうです。まだ、発表していないものばかりです。

 M : それは楽しみですね!ジョーさんは、1967年から世界のレースを撮り続けておられるわけですが、初めてスポーツカーレースを撮られたのは何のレースだったのでしょうか?!
 

J : イタリアのモンツァ1000Kmレースでした。そして、ル・マン、スパ、ニュルブルクリングなども行きました。それから、イタリーシシリー島のタルガ・フロリオやイギリスのブランズハッチで開かれた“BOAC 500マイル”も行きましたね。

TOP : Porsche 906 and 910 at Monza in 1967.
 “昔、F1ドライバーはみんなスポーツカーレースに出ていた!!”

 M : 生沢さんがホンダS800でクラス優勝されたニュルブルクリングのレースも行かれてますよね!?
 

J : 行ってます。あれは500Kmの方ですね。

 M : ジョーさんは、マニファクチャラーズ選手権が懸けられていない小さなレースにも行かれていたんですか?
 

J : はい。ブランズハッチのクラブマンレースにもよく行きました。

 M : そういったクラブマンレースの写真も出品されるのでしょうか?
 

 J : それらのレースについては、販売する方に結構出す予定ですよ。
スポーツカーのジャンルとして、コルチナ・ロータスとかフィアット、そしてミニなんかも出す予定です。

 M : 当時(1967年)ジム・クラークは、クラブマンレースには出場していたのでしょうか?
 

J : ジム・クラークはもうすでにロータス1本だったですね。F1とかF2とか。
サーティーズは乗ってましたね。アストン・マーチンで出場してましたよ。

 M : ところで、当時はF1ドライバーも結構スポーツカーレースに出場してましたよね?!
 

J : みんな出てましたね。イクスもそうだし、ヒル(グラハム・ヒル)も出てましたしね。後のマトラでル・マンに勝ったりしてましたしね。

 M : そういえば、あのヨッヘン・リントも1965年のル・マンでフェラーリで優勝していたし・・・。


TOP : Ford P68 with B.McLaren( Left side).  Lola T70 MKIII and John Surtees( Right side).
(C) Photograph by Joe Honda.
 “モンツァのバンクは安全だった!?”

 M : ジョーさん、今回の第2回 秘蔵写真展 のテーマなんですが、「歴史の中の1/250秒」という題名が付いていますが、どういう意味なんでしょうか?!
 

J : はははっ。これはね、ミスター・クラフトがつけたんですよ!

 M : 当時のシャッター・スピードはやはり1/250秒だったんですか?
 

J : そうですね。やはり1/250秒とか1/125秒かな。
しかし、今は1/500秒で撮らないと止まらないよ!それだけスピードが速くなっているんだね。

 M : ジョーさんから見て、昔のドライバーと今のF1ドライバーを比べてどこが違いますか?
例えば、コーナーリングでも当時のドライバーは、皆ドリフトして走ってましたよね!
 

 J : それは、ロード・クリアランスの違いも大きいし、昔は車の最低地上高が15cmぐらいだったのが今は地面ギリギリでしょ、だから昔はドリフトでもなんでも出来たわけですよ。
今は、車の作りも違うし、なかなかしようと思っても出来ないんじゃないかな。

 M : それとタイヤの違いもあるのでは?!
 

J : それもあるよね。今、タイヤのミシュランとBSを比較するとBSはグリップが良過ぎてトップ・グループの車はパワーがあるからいいけど、逆にエンド・グループの車は、ミシュランを使って滑らせていかないと走らないんじゃないかな。

 M : 話しは変わりますが、1967年のモンツァ1000Kmの写真を見ていると、バンクを使って走っていますがいつまでこのバンクは使われていたんでしょうか?!
 

 J : 1969年までバンクを使っていたね。70年からは、路面が荒れているということでバンクは使わなくなったんだよ。

 M : 当時の富士(スピードウェイの30度バンク)と比べて進入速度は違うんですか?!
富士は、ストレートのスピードのまま突っ込んでいきますが・・・。
 

J : モンツァでは、シケインがバンクの手前にありましたね。シケインを通過してからバンクに入るんですよ。当時はシケインで60〜70Km/hにスピードダウンしてからバンクに入るから富士みたいに全開で入って行くってことはないです。

M : 危険度からするとモンツァのバンクはそんなんでもなかったんですか?
 

J : そうね。バンクで事故はそんなに起きてないよね。

M : 私は特にジョーさんの写真の中でフェラーリP-4とチャパラル2Fがバンクを駆けぬけて行く写真がとても印象に残っていましたから、どうしてもうかがっておきたかったんです。
ところで、F1に関してはバンクは使ってなかったんですか?
 

J : モンツァのバンクはね、昔、1950年代だけど、ここでインディレースを開くためにバンクを作ったんですよ。当時は、インディ500もF1スケジュールの1戦だったからね!
F1はやっぱりバンクは使ってなかったよ。

(注:1957年6月29日に、モンツァ・サーキットにおいて10台のインディカーと当時のF1グランプリカーであったジャガー、マセラティ、フェラーリが対決した。バンクコースを63周x3ヒートで争うこのレースは当時の主力選手を欠いたF1勢を尻目にインディ勢が圧勝した)


TOP :  The Bank !!
Ferrari 330P-4s and Chaparral 2F in the early stage of the Monza 1000Km. 
Mike Spence was D.N.F in his white winged Chaparral 2F for the Monza in 1967.

TOP : Joseph Siffert driving Porsche 908 won the Monza 1000Km in 1969.
(C) Photograph by Joe Honda.
 “フェラーリ対フォード!!1967年のル・マンが最高!!”

M : ジョーさんから見て、1960年代のスポーツカーレースで一番印象に残っているレースはなんでしょうか?
 

J : レース以外にも風俗的なことで面白かったはタルガ・フロリオかな。それとル・マンは、当時のF1より盛り上がってましたね。そして、なによりも面白かったのは、いろんな車が出てきたからね!
1500ccぐらいの市販車をちょっと改造したような車も出てたし・・・。

M : イギリスの車で、トライアンフやヒーレーとか出てましたが、それらの車を含めてイギリスの車ってイタリア車と違い、ボディとシャーシーだけを作って、エンジンはBMCのを使ったりとかが多かったですね。
 

J : イギリス人は、根本的には手先が器用なんですよ。だから、なんでも出来るわけですよね。
今イギリスは、車が潰れたと言っているけど、年間250台ぐらい作るメーカーがいっぱい出来てきているんだよ。

M : 当時のル・マンでは、フォードGTが打倒フェラーリとして随分盛り上がっていたわけですが、フォードGTが成功する原動力となったのはなんだったんでしょうか?
 

J : フォードが1960年代初頭にフェラーリ買収しようとかなりのところまで話しが詰まっていたんだけど、最後になってフィアットのアニエーリがフェラーリに資金援助するということになり、フォードとの話しは無くなってしまったんだ。
フィアットのアニエーリは、フェラーリとの契約条件は、フェラーリの持ち株を51%にし、フィアットが残りの41%を持つという内容だったんだよね。さらにエンツォが将来的に死んだ場合、エンツォの持ち株の51%の内、31%をフィアットが引き取り、残りの20%をエンツォの息子であるピエロに渡すというのもエンツォの心をフォードから引き離した要因じゃないかな。
一方、フォードは面白くないわけで、フォードの支配下でフェラーリを走らせる戦略が出来てたわけで、それが崩れてしまったんだからね。
じゃあ、自分たちでやろうじゃないかということになって、フォードGT MK I 〜MK IVを作ったわけですよ。
ところが、レギュレーションが1968年から変わるに際して、フォードはスポーツカー(年間50台生産の市販車)GT40で続けたわけです。
また、フォードはF1でもフェラーリに対抗するために、イギリスのコスワースと組んで“DFV”を開発したしね!

M : フォードのやる気は、フェラーリの買収失敗が原因だったわけですね!
 

J : そうですね。面白いのはフェラーリ。フェラーリはイタリアの星だからね、今ではフィアットの配下でフェラーリがF1で主役になっているし、そのスポンサーは、アメリカのフィリップ・モーリスなんだよね!実質的にはマルボロの配下といえるんじゃないかな!
歴史というのは、いろんな方向にどう流れるかわからないですよね。

TOP : New Porsche 907 prototipe in 1967( Left side). Lola Aston and Chapparal 2F at Leman in1967.
(C) Photograph by Joe Honda.
 “今も昔もポルシェはノウ・ハウを売っている!!”

 M : ところで、60年代の主役の1つである“ポルシェ”についてですが、1968年頃から主役になってきましたよね。
 

J : そうですね。70年代に入って917も出てくるしね。
70年代のポルシェはル・マンに勝って、そしてレギュレーションで締め出されてアメリカに行くんだよね。

 M : しかし、強いポルシェがCAN-AMに行ったためにCAN-AM自体が無くなっちゃいましたが・・・。
 

J : そうだったね。

 M : ところで、ポルシェとアウディが関係が深いと思いますが・・・、当時からなんでしょうか。
 

 J : それぞれ独立した会社でやっているけど、ポルシェはレースで得たノウ・ハウを全てドイツのメーカーに売っているわけですよ。

 M : ポルシェの強さというと私は当時のタルガ・フロリオの強さを思い出してしまうのですが、ジョーさんから見て当時のフェラーリとポルシェの対決の中でポルシェの強さとはなんだったんでしょうか?!
例えば、フェラーリはどんなコースでも基本的に同じ仕様のマシン出てますよね。ところがポルシェは1970年を例にとれば、フェラーリが全て512Sで出ていたのに対して、タルガやニュルブルクリンクなどでは排気量の小さい908や910などで出場して、その他の高速コースでは917などで出場して勝利を得ていました。1966年頃にもポルシェはル・マンにおいて906のロングテール仕様なんかを出してストレート・スピードを稼いでましたし・・・。
 

J : そうでしたね。フェラーリは好きでレースをやっていたわけですよ。ポルシェの場合は、“パリ・ダカ”を例にとれば実験的に出場したポルシェ911の4WDのノウ・ハウをアウディに売ってアウディが“クワトロ”でラリー選手権に出てくるわけですよ。
最近のル・マンも良い例で、ポルシェが先に出て勝った後、アウディが出てくるわけです。表面的には出てこないけどね。
それに、ル・マンに勝った“ヨースト・ポルシェ”がアウディの基本でしょ!ほどんど同じだと思うけど・・・。
ポルシェの自信は、開発してそのノウ・ハウを売ることじゃないかな。それが日本のメーカーと大きく違うところだよね。

TOP : Targa Frorio in 1969( Left side). Start!! Nurburgring 1000Km in 1967( Right side).
(C) Photograph by Joe Honda.
 “自国に速いドライバーがいないとグランプリは流行らない!!”

 M : なるほど・・・。
1967年のタルガ・フロリオに話しを戻しますが、このレースにはフェラーリP-4、チャパラル2F、ポルシェ910などが出場してましたよね。しかし、フォードはあまり積極的じゃなかったですが・・・。
ジョーさんから見て、一番このレースに力をいれていたチームはどこだったのでしょうか?
 

J : ポルシェじゃないかな。この写真もそうだし・・・。(第2回 秘蔵写真展の入場券の写真を指差す)

 M : タルガ・フロリオのコース路面はとてもレース・コースの路面とは思えませんが・・・。
 

J : 悪かったですね!ラリー・コースのようでしたね。

 M : レース・システムはラリーに近かったように思うのですが、どうだったのでしょうか?
 

 J : ラリーとは違うけどね、20〜30秒間隔で1台づつスタートしてましたね。一辺にスタートすると危ないということがあったんでしょうね。

 M : レース中、後ろの車が先の車を抜いた場合などはちゃんと各車を計測するタイム・キーパーはいたのでしょうか?
 

J : もちろんちゃんと計っていたはずですよ。それに後からスタートした車はどんどん遅れるからまず抜く事は不可能じゃないかと思う。

 M : プラクティス順でスタートしていたんですよね?
 

J : もちろん速い順です。

 M : それから有名なニノ・バッカレラという地元の英雄がいましたが、やはり彼はそこで速かったのでしょうか?
 

J : 速いというより圧倒的な人気だったよね!これは今でも言えることなんだけど、地元に速いドライバーがいないとレースは流行らないよ。
だから今F1ストーブ・リーグで佐藤琢磨と福田 良なんかのいろんな話しが出ているでしょ!日本人ドライバーを育てて日本グランプリを盛り上げようとしているよね!

 M : なるほど・・・。
先日イギリスF3チャンピオンとなった佐藤琢磨のジョーダン入りが発表されましたが、ジョーさんからみて今までの日本人ドライバーと違うと思われますか?
 

 J : 基本的には中島 悟にしてもね、自分が一番良いときにF1に行けなかったことが違うぐらいで、それほど違うとは思えない。時代の流れが佐藤をF3チャンピオンにしてF1ドライバーにしたんじゃないかな。

 M : 佐藤が入ったことでジャン・アレジが引退しましたが・・・。
 

 J : アレジは全て役目が済んだということですかね。

 M : それとミカ・ハッキネンが休養宣言しましたが・・・。
 

J : あれはね。完全にFONの商売的な作戦だと思うな。まだ、ハッキネンのいろいろなライセンシー(ウエアetc)が彼に引退宣言をさせなかったと思うな。
本人は辞める気だったと思う。来年はモントーヤの時代じゃないかな。
昔、1994年のモナコでセナなどの事故があった後、ベルガーがレースを辞めると言っていたのを強制的に止めさせて続行させたでしょ。これも政治的なF1ビジネスの力ですよ。その見返りに今ベルガーはBMWの中心でやっているわけですよ。
本当にF1ビジネスは強大になりすぎたよね。政治的力なしではもう動かないビジネスになってしまったな。

M : そう思うと60年代の生沢さんが今活躍していたら、間違いなくF1ドライバーになっていたんじゃないかと思いますけど・・・。
 

J : そういうことですよ。

M : 話しは生沢さんのことになりますが、1967年当時、生沢さんはポルシェとの接触が強かったですよね。
あれは1967年日本グランプリにポルシェで勝ったのがきっかけだったのでしょうか?
 

J : いや、あれは67年のシルバーストーンで行なわれたイギリス・グランプリの前座F3レースに彼が勝ったのと、ポルシェにとって日本は当時からポルシェを買ってくれるマーケットだってことがポルシェにはわかっていたってことが生沢をポルシェのドライバーにさせたんだと思う。
事実、日本はポルシェにとって大切なマーケットでしょ。イギリスより多いかな?!アメリカは別格だけど・・・。当時のポルシェはその辺のところをきちんと見てますよね!

M : 当時のポルシェのチーム監督だったハンシュタインがいたときは、生沢さんを腕の良いドライバーとして見てくれてましたよね。
 

J : ガルフ・ポルシェの頃になると、ワークス・チームを解散してJ.Wオートモーティブなどに委託していたから生沢さんにはお呼びがかからなくなったよね。

M : その点本当にガッカリでしたね。
ところで、今回の第2回 秘蔵写真展の話しをうかがいたいのですが、どんなところをファンの方々に見てもらいたいか教えてください。
 

J : 1967年までが本当に最後のスポーツカーの時代だったと思うので、とにかく60年代はいろんな車があったというところをまず見てもらいたいです。
フォード、フェラーリ、マトラ、アルファもあったし、ルノーの流線型の凄いのもあったし・・・。

M : そういえば日本のメーカーもその当時は、ル・マン目指してレーシングカー作ってましたしね!
 

J : しかし1968年からスポーツカーのレギュレーションが変わってしまって、それ以降日本のレースはCAN-AMのレースに傾いていったでしょ!

M : そうでしたね。
ところでジョーさんは、明日からイギリスに行かれるとか聞きましたが・・・。
 

J : ええ。今回は2つ目的があって、1つはある企画のために、日本に最も馴染みの深いF1ドライバーであった“ビッグ・ジョン”こと“ジョン・サーティース”に会いに行くんですよ。そして、その帰りにマカオ・グランプリを取材してきます。

M : それは凄い!! サーティースですか!!(マカオGPを取材の方が凄いという方もおられるとは思いますが・・・)正に、ジョーさんだから実現出来たことじゃないですか。
 

J : ジョンとはホンダ時代から知っているからね。そして、マカオでは佐藤と福田らの活躍が楽しみですよ!

M : では、今日は貴重なお話しありがとうございました。
 

J : こちらこそありがとうございました。

TOP : Abarth( Left side) and Matra( Right side) in 1969.
(C) Photograph by Joe Honda.


お知らせ
 耳寄り情報として、11月3日から始まるジョー・ホンダ 第2回 秘蔵写真展において、最新のジョー・ホンダ2002年カレンダーが発売されます。このカレンダーには2種類あり、1つは現在絶大な人気を誇っている「全日本GT選手権」のもので、すでに発売されておりますが、もう1つのカレンダーは、この写真展にて初めて発売されるもので、実は私も大変楽しみにしているのですが、なんど「60年代スポーツカー」を題材にしたカレンダーだそうです。
では、皆さんお時間があれば是非この写真展に立ち寄ってください。そして、モーター・スポーツをずっと支えてきたジョー・ホンダさんを応援しましょう!!

TOP : Joe Honda's Calendar A2 size \1,500



 

アンケートとプレゼントの御案内 

 今回もジョー・ホンダ氏より、「第2回 秘蔵写真展」の入場券を頂いておりますので、ジョーさんが撮影された60年代のスポーツカーについての思い出などをメールでお寄せください。アンケートを頂いた方全員に入場券をプレゼントいたします。

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(C) 22/OCT/2001 Photograph by Joe Honda.
(C) 22/OCT/2001 Text reports by Hirofumi Makino.