TOP : '66
3rd Japan Grand Prix in Fuji SpeedWay.
(C) Photograph
by Naofumi Ibuki.
1966年、なんとも壮大な富士山麓に完成した富士スピードウェイ。
大観衆の見守る中、“第3回日本グランプリ”が開催された。
TOP : '65 No.7 AUTO SPORT's Report
of Fuji Speedway.
Special thanks
Sanei-shobou.
TOP : Joe Honda and Don Nichols.
Special thanks
Joe Honda.
TOP : Don Nichols ( Leftside) and
Stirling Moss ( Rigthside)
at Fuji Speedway in '68 Japan CAN-AM.
(C) Photograph
by Satoshi Suzuki.
1968年、当時北米大陸で開催されていたCAN-AMシリーズが日本にやって来た。その中に、スターリング・モスなどの関係者と共に、“ドン・ニコルズ(左端)”の姿もあった。日本モータースポーツにとって彼の存在は大きかった。 |
THE
REPORT OF NEW FUJI SPEED WAY
by
JOE HONDA
The
Invasion of TOYOTA !!
ジョーホンダ
新しい富士スピードウェイを語る
!!
「私は、トヨタのやる気を感じた!!」
TOP : New Fuji Speed Way in
Grand stand.
(C) Photograph
by Joe Honda.
TOP : NEW FUJI SPEEDWAY.
遂にその日がやって来た!
2005年3月6日、新しい“富士スピードウェイ”の落成披露式が富士スピードウェイ内ピットビル2階において、沢山の来賓、および報道関係者を集めて盛大に行なわれた。
そして、1966年の旧富士スピードウェイのオープン以来見続けてきた“ジョーホンダ”もその中にいた。
今回は、ジョー氏が見たニュー富士スピードウェイを中心に旧スピードウェイの歴史と比較しながら紹介していこうと思う。
まずは1966年にオープンした、旧富士スピードウェイの誕生の経緯について調べてみた。
ここでまず紹介しなければならない1人のアメリカ人がいるとジョー氏は言う。
その名を“ドン・ニコルズ(左下の写真)”という。
ドン・ニコルズ氏は、1963年スズカサーキットで行なわれた“第1回日本グランプリ”で、いすゞベレルに乗ってクラス4位に入賞、また日本での第1回ストックカーレースで優勝。また、1967年富士スピードウェイで開催された“第4回日本グランプリ”で日本初登場となる“ローラT70”で参加するなどドライバーとして活躍する一方、アメリカの象徴であるストックカーイベントの組織"NASCAR"のセールスマンの顔も持っている異色の人物であった。
また、1960年代中期、モータースポーツ発展途上の日本において、レース・タイヤ、オイル、さらに、エンジン、レーシングカーなどの紹介も行なっていたいなくてはならない存在でもあったのだ。
ちなみに、日産やプライベートチームにシボレーエンジンなどを紹介したのもほとんどが彼であったと言うぐらい日本モータースポーツ発展のための貢献は大きかった。まさに顔役である。
そんな彼が、アメリカのデイトナスピードウェイのようなオーバルコースを作る是非日本に作り、ストックカーレースを開催したいと考えたとしても不思議ではない。NASCAR(ナショナルアソシエーション・フォア・ストックカーオートレーシングの略)との提携の実現である。
そんな思いが現実味をおびてきたのが、日本ナスカー株式会社の設立であった。
1965年初頭、“富士スピードウェイ”建設構想は、日本ナスカー株式会社(アメリカ デイトナのNASCARと丸紅飯田との技術提携した会社。ドン・ニコルズ氏は、アドバイザーとして参加)によって進められていた。
当初、富士スピードウェイは、430万平方メートルの用地を利用し、デイトナ・タイプのオーバル・コースを作る予定であった。
しかし、当時のスポーツモータリゼーションの動向などから、ヨーロッパ方式のサーキットを建設するという方向に転換される事となる。
そのため会社経営陣も大幅な入れ替えが行なわれ、1966年のオープンを迎えることとなる。 |
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TOP : '05 New Fuji Speedway.
(C) Photograph
by Joe Honda.
2005年、新生“富士スピードウェイ”が誕生した。
TOP : They gots a "FIA Circuit Licence
Great 1".
(C) Photograph
by Joe Honda.
上の写真は、F1グランプリ開催サーキットの称号となるFIA公認の“FIAグレード1サーキットライセンス(マックス・モズレーFIA会長のサイン入り)”の授与を受ける“島田久光”富士スピードウェイ取締役社長(右側)とFIA会長
マックス・モズレー氏の代理を務めるJAFモータースポーツ局長(左側)。
TOP : Max Mosley( Right side) in
'73 Fuji Grand Champion Final Round.
He was a March engineering's salesman.
And Hiroshi Kazato ( Leftside)!!
(C) Photograph
by Joe Honda.
現FIA会長である“マックス・モズレー”は、1973年、新興レーシングカーコンストラクター“マーチ・エンジニアリング”のセールスマンとして富士スピードウェイに来日していた。当時の日本は2シーター2000ccマシンの大得意先であった。この時のモズレー氏の富士への思い入れが、今の富士スピードウェイに繋がったとも言えるとジョー氏は回想する。
ちなみに、左脇にいるのは故 風戸 裕。
TOP : A honorary president "Shoichirou
Toyoda".
(C) Photograph
by Joe Honda.
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