The '66 Indy 200 mile race in Japan 1966 by Joe Honda TOP : The Indy 200 mile race in Japan 1966. (C) Photograph by Joe Honda. |
![]() TOP : Graham Hill and his Lola T90 Ford. He couldn't a finish. (C) Photograph by Joe Honda.
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1960年代のインディ500マイルレースは、欧州勢の大挙来襲により大変な盛り上がりを見せていた。
まず最初に変化したのが、マシンの変貌だった。それまで、ロードスターというフロント・エンジン車が主流を占めていたインディ500に、イギリスのクーパーがミッドシップ・エンジンカーを持ち込んだのが1961年のことだった。わずか2500ccコベントリー・クライマックスエンジンをミッドに搭載し、ジャック・ブラバムのドライブにより、初参加ながら9位に入ったのはアメリカチームにとってはまさに脅威と写った。当時、古典的とも言える4200ccオッフェンハウザーエンジンをフロントに積んだインディカーばかりだったアメリカUSAC(USオートモーティブクラブ)界にとって、クーパーの活躍は、まさにエポックメイキングな出来事だったと言える。 そんな時、ヨーロッパの事情を一番知っていた“ダン・ガーニー”の強い要請で、1963年F1チャンピオンチームだったロータスのコーリン・チャプマンが遂にインディ挑戦を表明した。その後、ロータス以外にもミッドシップ・エンジン搭載車は増え続け、1965年のジム・クラーク優勝(ロータス38フォード)、1966年のグラハム・ヒル優勝(ローラT90フォード)、そして、ダン・ガーニー自身のチームであるA.A.R(オール・アメリカン・レーサーズ)のイーグルなどの活躍により、現在のミッド・シップエンジン車の基礎を作り上げた。 ところで、当時のチーム・ロータスの総師コーリン・チャプマンは、1966年より始まったF1エンジン規約改正により将来のエンジンを模索中であった。そこで目をつけたのが、アメリカのフォードである。インディ挑戦は、そんな思惑の中で始まったのではないかと私は想像する。あの名エンジンと言われる“フォード・コスワースDFV”も、実はロータスのインディ挑戦の賜物だったのではないだろうか。 また、ジョー氏もチャプマンの営業マンとしての力を認めており、後の走る広告塔F1マシン“ゴールドリーフ・ロータス”の誕生も、実はこのインディ挑戦から学びとったチャプマンの先見の明が成しえたものだったと氏も証言されていたことからもわかる。 |
The
'66 Indy 200 mile race in Japan
by
Joe Honda
END
(C) Photographs by Joe Honda.