THE MASSAGE TO HIROSHI FUSHIDA FROM HIS FRIEND 

「友人・知人 鮒子田 寛を語る!!」

第2回
“舘 信秀” (現・TOM'S 会長)
鮒子田 寛を語る!!
(鮒子田 寛 特別コメント付き!)
From Nobuhide Tachi to Hiroshi Fushida

 まさに圧巻であります。現在日本及び世界のレース界にあってトップで活躍されている歴戦の勇士たちが、今、鮒子田 寛を語る!!
 


M(牧野): お忙しい中、私のHPの為に時間を割いて頂き、本当にありがとうございました。
早速ですが、鮒子田さんと舘さんとの出会いを教えてください。
T(舘): 私にとっての鮒子田さんとは、人生の場面場面でお世話になった人だと言う事です。
そして、一番最初にレースにのめり込むきっかけになってくれた人ですね。
むかし、京都で(舘さんも京都なんでしょうか?)鮒子田さんがレースに理解をしめさない私の父をなんとか説得させてくれたことで私がこのレース界に入れたという訳です。
もし、鮒子田さんがあの時父を説得してくれなかったら今の自分がないと思います。
 
「当時、舘くんは後のマキF1の三村健二たちと、ロッドベンダースというグループを作り、軽自動車(高校生なので)でサーキットに走りに来ていて、鈴鹿で知り合い、付き合いが始まった。林の語るにある年下にキスの仕方うんぬんは彼らのことである。
 舘くんのお父さんが旅行で京都に来られた時、お父さんが舘くんがプロのレーサーになることに強く反対をされていたのを聞いており、すでにホンダの契約ドライバーであった私は、どういう訳か、お父さんの信頼を得ていたので、舘くんの頼みで説得にあたり、首尾よく成功した。」
鮒子田 寛

T: その後、トヨタに入る事になった鮒子田さんのいらなくなったS6を譲ってもらい、それでレースに出たのが最初でした。その頃は、まだ本格的な4輪ドライバーは日本にはほとんどいなかった頃で、鮒子田さんと私はあんまり年は変わらないのだけれど、鮒子田さんはやけに大人ぽく見えましたよ。レースに対する姿勢が職人だったね。プロフェッショナルだったんだよ鮒子田さんは・・・。
M:その後の関わりはどんな事だったのでしょうか。
T: 鮒子田さんは、トヨタを辞めてアメリカへ渡ってて、その頃私はトヨタ自工の後のTMSCR(トヨタ・モータースポーツクラブレーシング)に入って、ツーリングカーをやってました。
その頃の鮒子田さんは世界に目を向けてましたね。生沢さんとか・・・、風戸君とか・・・。我々から見ると随分考え方が進んでいたドライバーだったんじゃないかな。
M: ちょっと違う話しですが、私は鮒子田さんがとても世話好きな方なんじゃないかと思うんですけど。
T: 世話好き?! う〜ん。私の当時の印象はとてもクールだったな。プロフェッショナルだったよね。
 

「基本的にはクールと言う表現がまとを得ているのでは。面倒を見る部分もあるが、最終的には本人次第だというのが私の考えだし、日本的に、親分肌の面倒の見方や、無理強いや押し付けはしない。助言や面倒見ても、そこから先は、本人次第でしょ。」
鮒子田 寛

T:たぶん、当時は自分のことで精一杯だったんじゃないのかな。
M:話題がづれますが、童夢代表の林みのるさんが鮒子田さんのことを「ケチ」だと言われてますが・・・(笑)
T:ケチ?! ある意味では的を得ているんじゃないかな(笑)。もちろん悪い意味じゃなくてね。
 

「本人はケチではなく合理的だと思っています。必要なときには思い切って使いますよ!」
鮒子田 寛

T: 人間的に問題があるんだったら林さんだって鮒子田さんを童夢に招かなかっただろうしね。
M: 話しは戻りますが、グランチャンでチャンピオンになられてその後の関わり合いはどうだったんですか。
T: その後童夢時代があって、そして私のトムスの監督としてやってもらいました。
 

「 トムスは舘くんと大岩氏(現、トムス社長)の二人が設立した。舘くんのTと大岩のO+MotorsportsでTom's。
1989年から1991年まで、トヨタのワークスチームであるトヨタ・チーム・トムスのグループCのチーム監督をしていた。
1992年はUKと日本を往復し、世界選手権チームと日本のチームの面倒を見ていた。
1993年はトヨタチームトムスのルマンチームの監督(国内GR-C選手権が中止になったので)
1992年、トムスGB(トムス日本の100%子会社)へ赴任、副社長を経て、93年社長となる。
舘くんはトムスGBの会長であった。
1993年以降は、トムスGBの経営に専念、BTCC車、トムスF3の開発、レース参加等の活動を実施。その後、諸般の状況から、トムスはGBを売却することになり、売却先探しを任された。98年Audiへの売却が決まり、私は日本へ戻るつもりであったが、引継ぎと事後処理のために暫定的に残ることになった。それが、どういう訳か今でもUKに居る。」
鮒子田 寛

M: 舘さんもそうなんでしょうが、ル・マンに挑戦するという意味は特別な思いがあるからなんでしょうか。
T: そうですね。特別な思いがありましたね。ましてル・マンは、F−1なんかと違って比較的イージーに出場出来たからね。
M: 当時鮒子田さんを監督として迎えられた理由はなんだったのでしょうか。
T: やはり、ドライバーとしての経験が豊富だった事と語学が達者だった事が大きいね。まさに適任だったんじゃないかな。
M: 最後に、舘さんから見た鮒子田さん像とはなんでしょうか。
T: レーシング・ビジネスに非常に長けていたということじゃないかな。まったく適任ですよ。
レーシングビジネス全般に言える事だけど、とにかくバランスが抜群なんだよね。語学も出来たし、頭が良い。そして、レース経験もある。そして何よりも勉強家だったからね。
私の知る限り日本じゃ鮒子田さんのような知識を持った人はいないんじゃないかな。
M: レーサーとしての鮒子田さんを聞きたいんですが。60年代から70年代にかけてとかくニッサンチームのドライバーがもてはやされていましたが、舘さんから見た鮒子田さんの速さはどうだったんでしょうか。
T: 全くひけをとらない実力だよ。実際には、鮒子田さん の方が速かったんじゃないかな。
M: では、今日はどうもありがとうございました。
次回は、是非、舘さんのツーリングカーで活躍されたお話しをうかがわせてください。
T: こちらこそ。自分のことだと話しやすいからね(笑)。
 


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(C) 3/SEPT/2001 Special thanks report by Nobuhide Tachi.