THE MASSAGE TO HIROSHI FUSHIDA FROM HIS FRIEND 

「友人・知人 鮒子田 寛を語る!!」

第4回

“中島祥和”
"YOSHIKAZU NAKAJIMA" 
(元 報知新聞記者)
鮒子田 寛を語る!!
From Yoshikazu Nakajima to Hiroshi Fushida

 まさに圧巻であります。現在日本及び世界のレース界にあってトップで活躍されている歴戦の勇士たちが、今、鮒子田 寛を語る!!

  鮒子田 寛さんの名前を見たり、聞いたりすると不思議に思い出すのは、今はない船橋サーキットで白いホンダ(S600だったと思う)のボディーに、赤い文字で鮒子田寛と大きく書いてあったこと。まだ1960年代の後半だったと思う。珍しい名字なのでどう読むのか興味を持ったのが彼を知るきっかけだった。
 モータースポーツと長い間つき合っているが、特に興味があったわけではなく、スポーツ紙に勤務していた関係上、鈴鹿サーキットができたとき、たまたま大阪にいたので「ちょっと覗いてこい」と言われて出かけたまで。バイクも車もほとんど興味なしに、いつの間にか「鈴鹿とかへ行った」ことで担当するようになった。
 モータースポーツはまだ新鮮な興味がいっぱいある時代で、鈴鹿についで富士スピードウエイも建設され、日本グランプリは凄い人気になった。トヨタ、日産、プリンス、いすゞ、ダイハツ、三菱、スバルなどがクラスごとに競り合い、どこも「勝った、勝った」の大騒ぎだった。
 しかし、次第に突出した車が出現し、プリンス,トヨタ。そして、日産・トヨタが“対決”するようになると、プリンスR380を引き継いだニッサンR381,2、そして、トヨタ7などが現れ、そのトヨタの若きワークスドライバーの1人に鮒子田さんがいた。ニッサンが田中健二郎、高橋国光、北野元、少し遅れて長谷見昌弘、黒沢元治さんたち、2輪上がりの猛者をそろえたのに対し、トヨタは坊ちゃんぽいドライバーがいた。
 事故死した福沢幸雄、川合稔さんらはその典型で、鮒子田さんもそんな雰囲気を持っていた。何となく仲間みたいなつきあいで、彼が乗っていたトヨタ・コロナ1600GTを借りて走っていたこともある。東名高速でポルシェ908を走らせようと企画し、故・滝進太郎さんと話し合い、本当に実現させたのだが、無茶をしたもので、プロのレーサーがハンドルを握り(永松さん)サイドシートには、何と鮒子田夫人を無理矢理に乗ってもらった。御殿場の西、駒橋のパーキングから多い松田まで、彼女は「生きた心地がしなかった」そうだ。トラックの横をすり抜けるポルシェ908は、今でも鮮やかに記憶している。
 トヨタがCan-Amレース出場を目前にして事故があり、それが取りやめになって、チームも縮小されると、鮒子田さんはアメリカへ向かった。カンナム出場の夢が忘れられなかったようで、奥さんと一緒に転戦しながらがんばっていた。事故に遭い足をもう少しで切断する、などと聞いたものその頃だった。70年代。遠い昔の話しになる。
 一時はレース界から遠ざかり、日本橋の三越にあった家業の和装小物の店でばったり会ったこともある。和服を着て草履を履き、ピシッと帯を締めた姿は、なかなかで「レーシングスーツより似合うよ」と話した記憶がある。しばらく会わなかったが、80年代になってトムスが英国に工場を造り、そこの副社長に収まっていた。やはりレース界からは離れられないようで、ル・マン24時間の監督をやったり、レーシングカーづくりを未だに続けていると聞いた。
 トヨタはル・マンを2年間戦ってやめたが、ル・マンのノウハウは鮒子田さんがしっかりと吸収し、今やル・マンの王者、アウディのノウハウは「彼のところからでている」とまで言われる。なんだか飄々として、レーサーというイメージにそぐわないように見えたが、今のトップドライバーを見るにつけ、60年代後半のトヨタのドライバーたちは、今、サーキットに現れても違和感のない雰囲気を持っていたと思う。鮒子田さんはそんな1人だった。
 今?うーん、帽子を脱がない方がいい。
(中島祥和)

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(C) 27/SEPT/2001 Text reports by Showa.