TOP : Hiroshi Fushida and his SIGMA MC73. (C) Photograph by Joe Honda. |
今から29年前の6月9日、世界で一番有名であり、なおかつ一番過酷な自動車レースである“ル・マン24時間レース”に日本人として初めて挑戦した男たちがいた。その一人は鮒子田 寛、彼は前年1972年度 富士グランチャンピオンレース・シリーズ・チャンピオンの実力者、そしてもう一人は、今や伝説化しているスーパー・スター“生沢徹”の2人である。
さらに、鮒子田と生沢の乗るマシンは、シグマMC73ロータリーという純日本製マシンであることから当時のル・マンでは注目の的となっていた。
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“シグマ(生沢、鮒子田、ダルボ組) 14位で通過”
[ル・マン(フランス)7日 中島特派員] 日本人レーサーが、初めてル・マン・サーキット(1周13.64km)を走った。世界でもっとも古い伝統と権威を持つスポーツカーの“ル・マン24時間耐久”レースは9、10日の両日、フランスのル・マン・サーキットで行なわれるが、生沢徹、鮒子田 寛の日本人レーサーと、フランス人のパトリック・ダルボのトリオが操縦する日本製のシグマMC73ロータリーは、7日行なわれた最終予選で4分10秒0のタイムをマークして14位で通過。日本製マシン、ドライバーがともに、初めてル・マンでの栄光をめざしてスタートする。なお、ポール・ポジションは6日の第1次予選で3分37秒5(平均時速225.77km/h)を出したフェラーリ(A.メルツァリオ/C.ペイス組)が獲得した。
イタリアン・レッドのフェラーリ12気筒がうなる。フレンチ・ブルーのマトラが金属的な排気音を残して飛び去る。サーキットは、スポーツカー・レース最大のイベントにふさわしい熱気にあふれていた。
(昭和48年6月9日発行の報知新聞から引用活用させていただきました。)
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29年前にサルテ・サーキットを生沢徹と共にシグマで走った鮒子田 寛は、2001年6月16日同じサルテ・サーキットに立っている。自らドライビングすることはもうないが、今は、優勝候補の“ベントレー・ルマンカー”の製作部門の役員としてこの場にいる。自らの夢が今現実となるかもしれない。ル・マン制覇という夢が・・・。
TOP : From Hiroshi Fushida to Tetsu(Leftside). Hiroshi Fushida and Tetsu, before a race(Rightside).
"TETSU IN LE MANS" "TETSU IN LE MANS PART 2" |
(C) 17/JUNE/2001
Photograph by Joe Honda.
(C) 17/JUNE/2001
Text Reports by Hirofumi Makino.