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2005年12月4日、薄曇りの天候ながら数万人の観客で埋まったここ新生“富士スピードウェイ”。
今年を締めくくるモータースポーツの祭典として、「ニスモ・フェスティバル」が今年も盛大に開かれた。 例年ニスモフェスには余り興味が沸かなかった私だったが、今年は足を運ばざるを得ない理由によりここ富士に行くことになったのだ。 なぜならば、ニッサンR380II、R381、R382という60年代を代表する国産レーシングカーがレストアされ、当時のドライバーがドライブするというなんとも夢のような話が舞い込んだからだ。 さらに、11月13日に開かれた「トヨタ・モータースポーツフェスティバル」に参加した我が鮒子田 寛氏が、なんとこのニスモフェスにもトヨタ7を駆って特別出場するというのだからこれは絶対に行かないわけにはいかない。 しかし、仕事の都合上、前日3日のテスト日には行けず、いつものようにくるま村専属記者(!?)の田村吉幸氏に写真等はお願いして、当日私は、東京 新宿より学生時代からのお決まりコースである「小田急ロマンスカー」に乗って、御殿場駅まで行き、そこからタクシーで新生富士に向かう事となった。 旧富士スピードウェイの正面玄関は、現在第2ゲートとなっているが、私はそこにある関係者入り口より鮒子田氏から頂いたパスをもらい初めて新しい富士スピードウェイに足を踏み入れた。 1971年に初めて旧富士スピードウェイを訪れた私は、まずマシンの音、そして、オイルの臭いを嗅ぎながらメインスタンドに向かったことをふと思い出してしまった。そう言えば、前座の1200cc以下のツーリングカーレースが行なわれている最中に到着するのが昔の常だったなぁ・・・。 時代は、すでにトヨタ、ニッサンのメーカー同士の争いは終焉を迎え、プライベーター同士の熾烈な争いが話題となった富士グランチャン創成期。酒井のミノルタマクラーレン、風戸のポルシェ908II、そして、Tetsuのポルシェ917Kなどグランチャンの創成期を飾るそうそうたるドライバーとマシンたち。そして、1972年からは2リッターマシン同士の戦いがスタート。 そんな中に、元チーム・トヨタのエースドライバーであった“鮒子田 寛”がいた。 鮒子田は、1970年初頭、トヨタを辞め、単身アメリカにモータースポーツ修行に渡った。CAN-AM、F-Aコンチネンタル、TRAN-AMなどのメジャーレースに参戦し、常に上位につける活躍。しかし、Tran-Amレースにおいてレース人生最大のクラッシュを経験するも九死に一生を得る。 1972年は、鮒子田 寛にとっては心機一転を計る大事なシーズン。一時は引退も考えた鮒子田にとっては必死で臨んだグランチャンでもあった。 元チーム・トヨタのエースがなりふり構わずチャンピオンを狙ったこの1972年は、まさに日本モータースポーツの第2の夜明けでもあったと思う。ヨーロッパから主戦場を日本に移したTetsu Ikuzawaと新興メーカーのGRD、当時世界最高の2リッターエンジンといわれた三菱R39Bを搭載したローラT290(ロンソン2000)と永松邦臣、同じくR39Bを積んだローラに乗るドクター漆原。そして、前年から登場し、センセーションを巻き起こした田中 弘のシェブロンB19。まさに戦場の様相。 対する鮒子田 寛はというと、元ワークスシェブロンのB21Pを獲得し、彼らに挑む。 そして、「鮒子田 寛レーシング・ヒストリー」にも書かせて頂いたように劇的な逆転チャンプを獲得することになる。 そんな鮒子田のモータースポーツ活動の中で唯一抜けている(!?)ことがある。 それは、60年代日本グランプリでの活躍である。もちろんマシンが完調だったなら、あるいは歴史は変っていたかもしれないが・・・。 当時トヨタは、1969年日本CAN-AMでの優勝を契機に、世界的に人気があったCAN-AMシリーズに参戦する事を決めていた。 しかし、テスト中の相次ぐ死亡事故のため、その計画は白紙撤回となってしまった。 アメリカンレース、インディへの憧れ、それは鮒子田の夢でもあった。鮒子田 寛とアメリカンビッグマシン。鮒子田 寛とCAN-AM用トヨタ7。これこそが当時を想う我々ファンにとっては最高の組み合わせと言っていい。 そして、36年振りにその組み合わせがここ富士で実現する。我々はその生き証人となる。まさに夢叶ったりである。 |
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(C) Photographs by Yoshiyuki Tamura.
Special thanks Hiroshi Fushida.