HIROSHI FUSHIDA PARSONAL HISTORY 
1965-1981
レーサー鮒子田 寛が歩んだ
努力の16年間
 鮒子田 寛がレーシング・ドライバーとして歩んだ16年間は実に波乱に飛んだものだったのではないでしょうか。
ホンダ・ファクトリー・チームに在籍し、ホンダS600を駆っての衝撃的なデビューからチーム・トヨタのエース・ドライバーとして活躍した時期を天性の時代だとするならば、プライベートとして天国と地獄を同時に体験した1970年からの3年間はまさに闘魂の時代と言えます。
その結果として鮒子田 寛の代名詞には必ず“日本人初の・・・”が付くことになり、その努力は報いられたのではないかと私は考えます。
 さて、このページではその偉業を成し遂げた鮒子田 寛のプロフィールをまとめてみました。
鮒子田 寛 プロフィル
 
生年月日 :1946年3月10日(昭和21年)

出生地 :京都市下京区仏光寺烏丸
血液型 :B型
星座 :魚座
趣味 :強いて言えば旅行
家族構成 :妻、子供2人
 

1946年3月10日、京都市下京区仏光寺烏丸に生れ、中学から大学まで同志社で教育を受ける。

1964年、自費でホンダS600を手に入れ、鈴鹿サーキット通いが始まる。 

1965年1月、ホンダにスカウトされ、契約ドライバーとなる。同年5月、デビューレース「第2回クラブマン鈴鹿レース」で生沢、津々見に次ぎ総合3位となる。 

1966年8月、トヨタチームに移籍。同年10月、トヨタ2000GTによるスピードトライアル『世界記録3、国際記録13樹立』でチームトヨタのドライバーとしてデビュー。

1967〜69年、トヨタ2000GT、トヨタセブン(3リッター)、トヨタセブン(5リッター)を駆り、富士1000Kmレース、鈴鹿1000Kmレース等、数々のレースに優勝する。 

1970年、トヨタを退社し、アメリカに渡り、Formulra−Aシリーズ、Trans−Amシリーズ、CAN−Amシリーズなどに日本人として初めて参戦、スポットで日本の鈴鹿1000Kmレース等にも出場。 

1971年、Trans−Amシリーズ第4戦、ロード・アメリカで車両トラブルによりドライバー生命を絶たれるほどの大事故を起こす。 

1972年、アメリカン・レース・チャレンジを中止し、富士グランチャンピオン・シリーズ全戦にシェブロンB21Pで参戦、シリーズチャンピオンとなる。

1973年、日本人として初めて「ル・マン24時間レース」に生沢 徹と共にシグマMC73・ロータリーで出場。 

1975年、日本人として初めてF・1チャンピオンシップのかかった「オランダ・グランプリ」、「イギリス・グランプリ」に出場するも、マシントラブルで予選不通過。2度目の「ル・マン24時間レース」にシグマMC75で挑戦。オーストラリア・バサースト1000Kmレースに日本人として初出場、総合3位、クラス優勝する。

1981年、3度目の「ル・マン24時間レース」にチャレンジ。この年、シーズン終了後、16年間のレーシングドライバー人生からリタイヤする。 

1986年4月、林みのる率いる「童夢」に入社、副社長として、レースカーの開発とレース活動を担当する。

1989年、トムスへ移籍、その後、3年間、トヨタワークスチーム、トヨタ・チーム・トムス監督として、国内耐久レース、及び、ル・マンに参戦する。

1992年、英国のトムスGBへ移り、社長に就任、レースカー開発、スポーツカー世界選手権、ル・マン参戦等、英国でのレース活動を指揮。 

1998年、トムスGBはアウディにより買収され「レーシング・テクノロジー・ノーフォーク」と社名を変更。引き続き役員として在籍し、アウディやベントレー等のレースカー開発を手掛ける。マネージャーとしての手腕を買われ、結局2003年までRTNの役員を務め、VW グループのベントレーのルマンレース車両開発責任者としてベントレー・スピード8開発を統括、2003年ル・マン24時間レース制覇に貢献した。
2003年に帰国しINGINGのF3チーム監督となり、2004年にプライベートチームとして12年ぶりとなる、ドライバー・チームチャンピオンを獲得。2007年1月には童夢に復帰し、同社取締役に就任しル・マン参戦等のレース活動を指揮。2009年童夢を退社、現在はル・マン用エンジン開発等を行っているエイムの顧問を務める。
 その後2020年現在、童夢の顧問として活躍中である。

 


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(C) 10/AUG/2001 Text report by Hirofumi Makino.