決勝 

 1968年11月23日。
富士スピードウェイは、快晴に恵まれ11月にしては暖かい一日となった。
午後1時26分、スターリング・モスが駆るマスタングに先導された23台のビッグマシンたちが爆音を上げながらフォーメーションラップに入っていった。日本グランプリを見慣れた観客は、このローリングスタート方式に多少の違和感を覚えながらも緊張な面持ちで見守っている。
 隊列を整えながらゆっくりと周回してきた集団の先頭を走るペースカーが徐にピットロードに入ってきた。いよいよスタートである。
先頭のホールとマクラーレンの2台が徐々にスピードを上げてきた。大会組織委員長 塩澤進午氏の振るグリーンフラックを合図に世紀の「ワールドチャレンジカップFUJI 200マイルレース」のスタートが切られた!

 最初に第1コーナーに飛び込んだのは、最前列にいたシャパラルとマクラーレンの2台ではなかった。2列目にいたマーク・ダナヒューのスノコスペッシャルが抜群の加速力で2台を抜き去りトップで飛び込んでいったのだ。そして、ブルース・マクラーレンとジム・ホールの2台が続く。
あっという間にヘアピンに現れた先頭集団。ダナヒューのトップは変わらず、2車身ほど離れてマクラーレンとホールの2台。さらに3車身ほど離れてアンドレッティのローラT160フォードとレブソンのM6Bフォードが続き、その後は5〜6台の集団となって追う展開となっている。
注目のサーティーズのシャパラル2Hは、まだ20番手前後を走行している。また、調整不足を伝えられていた 勝常時のIMAI A-1が日本勢のトップに立って長谷見のローラをリードしている。
 先頭のダナヒューは、最終コーナーを回りグランドスタンドへ。ここで3番手で走行中のホールが素晴らしい加速を見せる。
左アウト側に寄りながらブルース・マクラーレンをストレート中央付近で抜き去ると、そのままダナヒューの後ろにピタリと付け、第1コーナーで強引にインに入り一気に抜き去ったのだ!ホールがトップに立った!!シャパラルが日本の地でトップを走っているのだ!
ヘアピンまでには、ブルース・マクラーレンもダナヒューを抜いてホールを追う展開。
3リッターながら7リッタークラスのビッグマシンに挑戦しているトヨタ7勢は、タキチームのローラとIMAI A-1/RSCと中団争いをしている。
また、注目のサーティーズのシャパラルは、ストレートでは抜群の速さを示すものの、ナロートレッドの2Hは、コーナーでは今一歩安定性を欠き、中々上位に進む事が出来ないでいる。
2周目に入ると、クリス・エモンのブランニュー"フェラーリ612"がアンドレッティをヘアピンの立ち上がりで抜き去り5位に進出してきた。
 

 2〜10周目にかけてホールのシャパラルがリードしていたものの、11周目のヘアピンで突如失速してしまう。何らかのトラブルがあった模様だ。あっという間にブルース・マクラーレンとマーク・ダナヒューに抜かれたホールはスローダウンしたままその周ピットへ。ホールがラジエーター辺りを指差していることからすると、オーバーヒートが原因のようだ。
 ホール脱落の後、トップのマクラーレンは、スピードを押さえながら 1分19秒台で走行している。ダナヒューは、20秒台を切れないでいるのでマクラーレンのトップは安泰である。
 クリス・エモンのフェラーリがレブソンのシェルビーアメリカンM6Bをストレートで抜き去ったのは18周目のことだった。フェラーリV12は、快調なようでマクラーレンとホールのスピードまでは行かないまでもダナヒューに迫る直線での速さを示している。
 そんな中、一度は車を降りたジム・ホールが再び2Gに乗り込んだのだ。グランドスタンドでシャパラルの走りを期待していたファンから歓声が上がる。ホールは、オーバーヒート気味ではあるのだがスピードを落として走り続ければ完走は出来ると判断したようで、シートベルトを着けるとすぐにエンジン始動。ブルース・マクラーレンがストレートに現れるタイミングを見て、タイヤスモークを上げながらピットアウトして行った。トップのマクラーレンとは絶望的な9周ほどの差がついているのだが、ここはファンのために走るつもりのようだ。
 それとは対照的にもう1台のシャパラルが入れ替わるようにゆっくりとピットに入ってきた。サーティーズは、マシンを降りリア・サスを指差している。どうもこのニューシャパラル2Hのリア・サスペンションは、他のマシンたちと違う機構で出来ているらしく、サーティーズはコーナーリングにおける違和感を盛んにピットクルーに説明している。結局、サーティーズはドライブを諦めてリタイヤとなる。

 中団では、あまり調子が出ていないモッチェンバッハのマクラーレンM6Bフォードとチャーリー・ヘイズの駆るマッキー・スペシャル・オールズモビルが10位前後で争っている。ちなみにヘイズは、SCCAを代表するドライバーの一人だが、ニッサンの要請でその年の日本グランプリ用のR381をテストドライブした経験を持つ異色のドライバーだ。

 20周を過ぎてすでにリタイヤしたマシンは2台。
当初、ドライブ予定だった田中健二郎から高橋国光にドライバー交代が行われて予選、決勝と進んだチーム・ヤスダのローラT70MKIIが2周目にエンジントラブルでリタイヤ。
2台目もやはりチーム・ヤスダのニューマシン ローラT160で挑戦したその年のル・マン24時間レースの覇者 ペドロ・ロドリゲスが4周目にオーバーヒートでリタイヤ。
そして、元ワールドチャンピオン サーティーズの2Hが15周目にギブアップ。

気迫のジム・ホール 

 75周で争われる「ワールドチャレンジカップFUJI200マイルレース」。レースは38周、まだ半分を超えたばかりだ。
トップは抜群の強さを見せるブルース・マクラーレンのM8A。それを半周の差で追いかけるマーク・ダナヒュー。さらに10秒遅れてレブソンとエモンの2台がデッドヒートを繰り返している。
30周を過ぎた辺りからトラブルを抱えていたマリオ・アンドレッティのローラは、現在モッチェンバッハらと中団争いに加わっている。
日本勢のトップは、いつのまにかトヨタ7の福沢幸雄。ジョン・キャノンの旧式マクラーレンM1Cを抜き差って12位あたりを酒井のローラと順位を争いながら走行中だ。
長谷見のローラや勝のIMAI A-1はトラブルを抱えているようで福沢に遅れを取っている。

 一方優勝の望みをかすかに残しながらの追い上げ中のホールは、オーバーヒートを抱えながらも1分19秒台で飛ばしている。トップのマクラーレンが現在1分20秒台にタイムを落として走行中なので、もし何らかのトラブルが発生すれば大番狂わせも起こりえるかもしれない。

 そしてドラマが起こった。
46周目の最終コーナーをまずはトップのブルース・マクラーレンが姿を現す。続いて周回遅れのモッチェンバッハのM6B、アンドレッティのローラT160、そして追い上げ急なホールのシャパラル2Gが間髪を入れずにグランドスタンド前を通過していく。
ホールは、最高ラップを重ねながら猛烈な追い上げを続けている。トップのマクラーレンとはまだ7周ほど遅れているが4位のクリス・エモンとは2周差まで詰め寄っている。アンドレッティのリアにピタリとつけていたホールが左サイドにおもむろにコースを変えた。そして、一気にアンドレッティを抜き去る。続けてモッチェンバッハのリアにつけ第1コーナーの手前で右サイドにコースを変えホールはスピードの上がらぬモッチェンバッハを抜くつもりでいた。
その時だった。まだアンドレッティが後ろにいるものと思っていたモッチェンバッハは、後方を確認しないまま第1コーナー手前で右サイドにコースを変えたのだ。その時すでに抜く体制でインに入っていたホールの道が閉ざされた形となった。
 スローモーションのようにホールのシャパラルが宙を飛んだ。そして、裏返しになった状態でシャパラルはコース上に叩きつけられたのだ。
ホールに追突された形となったモッチェンバッハのM6Bは、リアカウルを飛ばした状態で、第1コーナーイン側にマシンを止めた。モッチェンバッハは、素早くマシンを降りるとホールのマシンめがけて駆け出していった。そしてコーススタッフも数人駆け寄りぐしゃぐしゃになったシャパラルからホールを救出しようとしている。両腕を引っ張られる形でホールが引っ張り出された。まだ生きている!ホールは両側を支えられながらコース脇のセーフティーゾーンに逃げる。シャパラルから炎が立ち上ったのはそのすぐ後だった。
このアクシデントでホールは、両足骨折という選手生命に関わる重傷を負ったのだ。

 レースはこの事故でペースカーが入るという非常事態で10周ほどイエローフラック走行が続き、67周目マクラーレントップのまま再スタート。
結局、そのままブルース・マクラーレンの乗るワークスマクラーレンM8Aが独走の優勝を飾り、第1回日本カンナムは終了した。
2周遅れてマーク・ダナヒューのスノコ・スペッシャルが2位。レブソンがそれに続いた。
アンドレッティは後半オーバーヒートが原因でリタイヤ。エモンが4位に入賞し、来シーズンへの期待を抱かせる走りを見せた。
また、チャック・パーソンズとサム・ポージーのローラがトラブルで下位に沈む中、チーム・トヨタの福沢幸雄のトヨタ7が大健闘。なんと5位に入賞したのだ。これは賞賛に値するものだろう。

 もしもの世界。このフィクションは、誰もが望んでいたジム・ホールの来日とシャパラルの走る姿をこの目で見ることの疑似体験することを目的としました。最後は優勝か・・・とも思ったのですが、やはりホールの68年は不運で終わることが自然のように感じましたので、このような結末にいたしました。優勝を期待しておられた皆様には心よりお詫び申し上げます。
また、2Hの登場も本来ならば1968年だったはず。その辺のことを翌年のサーティーズのシャパラルチーム入りをヒントにしてフィクションしてみました。
 独走のブルース・マクラーレンのその後ですが、私の考えるフィクションでは、グッドウッドでの事故死には遭遇せず、69年のル・マンへ"M6GT"を参戦させ活躍(実際69年ル・マンのエントリー時には、ブルース・マクラーレン/ジョン・ウルフ組でエントリーされていた事を思うと、もし参戦していれば、ジョン・ウルフのあの事故死はなかったことになります)。70年代になるとマクラーレン製(トロージャン製?!)の2リッタースポーツカーを製作し、グランチャンシリーズで大暴れ。ローラやシェブロンを押しのけてシリーズを席巻するシナリオになっていく予定であります。

 実際の日本カンナムは、68年と69年の計2回開催されました。このレースは、当時を知る私たちにレギュレーションが1つに定まらない日本グランプリとは全く違う適切なルールを持ったレースとして、初めて私たちに教えてくれた最初のレースといって良いのではないでしょうか。言い換えれば塩澤進午氏率いるNACが本当のレースはこれだ!ということを行動を持って教えてくれた事になるのではないかと思います。ストックカーレースなどもその良い例です。
改めてこの場を借りて塩澤氏にお礼を申し上げます。

 「もしも・・・68' NIPPON CAN-AM」フィクション編、お付き合い頂きありがとうございました。

END


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Text report by Hirofumi Makino

Special thanks "Shingo Shiozawa"