The Completion Models of Kuruma-Mura 
最近の完成品紹介

 このページは、最近製作しましたモデルカーたちを紹介いたします。
これらは、コンプリートモデルとして、「くるま村工房」で注文をお受けし、特注品として製作したものです。
まだまだ製作技術は未熟ですが、精一杯作らせて頂きました。
 

 このホンダR1300は、1969年鈴鹿1000Kmレースにて、当時タキ・レーシングに所属していた永松邦臣選手がスポット参加で松永喬選手と共に乗った時のものを再現したものです。バリエーションとしては、#12の木倉義文選手/高武富久美選手があります。
ホンダRA302と同じ空冷エンジンを採用したR1300でしたが、鈴鹿12時間での火災事故などの影響で、人気がありながらも、RA302同様悲運のマシンとしていまだに語り継がれています。
 当時のGCマシンの中では一際目立っていたマシンが、このGRD S74でした。VAL製ボディを纏い、富士のフルコース用に設計されたロングテールボディは、今でも多くのファンの羨望の的となっています。
このボディデザインは、デビュー当時の初期型をモデルにしています。
 T.N.T(トヨタ、ニッサン、タキ・レーシング)の戦いと言われた60年代後半の日本グランプリ。決死の30度バンクを駆け抜けるマシンたちは、今でも脳裏に焼きついています。そんな中、特に印象深いのは、1969年日本グランプリにタキ・レーシングより参加したホワイトジャイアンツこと“ポルシェ917”ではないでしょうか。そして、ドライバーも当時のポルシェ使い“ジョー・シファート”とくれば誰もがポルシェの優勝を確信したものでした。しかし、あまりにも間際の来日、相棒がパイパー爺。マシンセッティングもままならないままの決勝レース。セッピィの絶妙なドライビングで完走はしたものの総合6位という予想もしない不甲斐無い内容で終了したのは誠に残念でありました。
しかし、後半シファートが見せた激しい走行での1分46秒台のタイムは、もしも事前の練習、セッティングなどが出来上がっていれば・・・と思わせるような素晴らしいドライビングでした。
 そんな夢を乗せた917を作ってみました。
 1968年日本グランプリは、初めてのビッグマシンの対決ということで注目されました。それは、まさにT.N.Tの対決の序幕でありました。
ニッサンR381と共に注目されたトヨタ7。この両メーカーの面子をかけた戦いにモータースポーツファンは釘付けとなったのでした。
しかし、優勝したニッサンR381に唯一対抗出来たマシンは、トヨタ7ではありませんでした。それが、このタキ・レーシングより参加したローラT70MKIIIだったのです。今は亡きタナケンこと、田中健二郎選手の乗る#26ローラは、まさに鬼神の勢いでトップのニッサン2車を追いかけ、一時は2位にまであがりました。
しかし、信頼性に欠けるローラは、結局完走できず終わったのですが、その強烈なインパクトは今でも忘れられません。
 1969年に開催された第2回日本カンナムは、日本グランプリの復讐戦として参加予定だったジョー・シファートのポルシェ917PAの参加取りやめにより、やや話題性がないままでの開催となりました。しかし、トヨタの全面参加により事態は好転し、川合稔のトヨタ7が優勝するという結果で終了しました。
 興味深かったのは、4台を参加させたトヨタ7の内の1台。マクラーレンM12のシャーシにトヨタ7のエンジンを搭載した“マクラーレン・トヨタ”というマシン。予選でオートコーストTi22に次ぐ2位というポジションを獲得し、速さを見せつけました。ドライバーは、鮒子田寛。
レースでは、エンジントラブルでリタイヤしてしまいましたが、そのポテンシャルは、オリジナルのトヨタ7を凌いでいました。
そのマクラーレン・トヨタをモデル化し、エンジン部分もやや凝った作りにしたのが上の画像です。


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(C) Photographs by Hirofumi Makino