“ビッグ・ジョン”が逝ってしまった!!

 ジム・クラーク、グラハム・ヒル、ジャック・ブラバム、ブルース・マクラーレン、デニス・ハルム、クリス・エイモン・・・・そして、ジョン・サーティーズ。
 60年代を盛り上げたグレーデッド・ドライバーたちはほとんどいなくなってしまった。 実に寂しい。
もう天国でしか見ることが出来ないであろう“サーティーズのホンダとクリス・エイモンのフェラーリ”が67年のモンツァや68年のベルギーやモンツァのように絡みながらの争いがあの世のグランプリで再現されているのだろうか。
今や下界に残るのは“ダン・ガーニー”と “ジャッキー・スチュアート”、そして、やや若い“ジャッキー・イクス”ぐらいであろうか。

 サーティーズの凄いところは、無敵の2輪チャンピオンから転身してF1チャンピオン(1964年)となったことである。
さらにフォーミュラに限らずプロトタイプスポーツにおいても強さを発揮し、特にフェラーリ時代に築いた数多くの勝利は無敵であった。 また、北米を舞台に開催されていたオープン2シーターマシンによるレースでは抜群の強さを誇り、特に1966年に誕生した“CAN-AM”シリーズではローラT70を駆り初代シリーズチャンピオンとなったのは有名。

 まだまだトップコンテンダーではなかったエリック・ブロードレー率いるローラを一躍有名にしたのはジョン・サーティーズの力なしでは成し得なかったと言える。
 
 
 
 
 
 今でこそリアルタイムでのF1やル・マンなどを見ることが出来るが、当時は1〜2ヶ月遅れで発売されるモータースポーツ誌の写真とレポート記事で知るのが常であり、実にゆっくりとした時間が流れていた時代であった。
1967年のイタリア・グランプリでのホンダの勝利もまずは新聞記事で知り、その1ヶ月後にオートスポーツ誌で全容を知るのである。

すでに他界されている元ホンダ・レーシング監督だった“中村良夫”氏が書かれた「グランプリ ホンダF1と共に 1963-1968」においてサーティーズについてコメントされているところをご紹介しようと思う。

 「ジョンとしては、自ら選んだホンダとの共同作業、ホンダ・ファミリーの中の一員としての在り方に、大きな失意を感じたことは、私が彼の心中をおしはかった以上であったに違いない。
 彼のジャーナリスティックなニック・ネームは“Big John”であるが、彼自身この Big を proud man(誇り高き男)として解釈していた。 ジョン自身によれば、“自分に対して自信をもち、自分の決めたことに対して自分自身で責任をもつ” ということなのである。ジョン自身が自ら守り通してきた彼の proud man の一角を、私達が傷つけてしまったことになるのであろう。」


 過去サーティーズは、2度チームを飛び出したことがある。1966年のル・マン24時間レース直前に自らの待遇についてチームと揉めてフェラーリを飛び出しエースの座を捨てた時、もう1つがジム・ホールと組んで1969年CanAmチャンピオンを目指すもニューカー“チャパラル2H”に理想の走りを見出せずシリーズ終盤に脱退した時である。
見方を変えればサーティーズの我がままと捕らえることが出来るのだが、常にトップの走りを目指すため自らの直感を信じるが故にの決断だったのではと今は思えてならない。
 余談だか、69年CAN-AMシリーズ初戦ラバッツ・ブルー・トロフィーレースにおいてチャパラル2Hのデビューまで使用した“チャパラル・マクラーレンM12”でのガッツある力走は、最後に見た(実際は見ていないが・・・)新型マクラーレンM8Bを最後まで追い詰めたサーティーズらしい走りだったのではと思う。
 
 

TOP : Big John & Honda RA301 in 1968..
(C) Photograph by Joe Honda.
 
 波乱だった1966-1969シーズン

 彼のレーシング・ドライバーとしての円熟期であった思われる“1966年から1968年”は彼にとってまさに波乱のシーズンだったと言える。その発端が1965年の終盤、モスポートのレースで起きた大事故による再起不能と言われた大怪我。
余談だが、実は1966年のインディ500に出場予定だったと聞く。しかし、上記の瀕死の怪我により出場を回避、その代役がその年優勝したグラハム・ヒルだったという。なんと不運なビッグ・ジョン・・・。

 翌年奇跡のカムバックを果たし、フェラーリ330P3で雨のモンツァ1000Kmを席巻。 しかし、躍進著しいイタリア人 “ロレンツォ・バンディーニ”に対するチーム内の待遇で対立、結果ル・マン前にフェラーリを飛び出しクーパー・マセラティチームにスポット加入。 そしてメキシコGPにおける優勝。 さらにホンダに電撃加入。
サーティーズはこの年、CAN-AMシリーズにおいてローラT70MKIIでチャンピオンとなっている。
翌年、チーム・サーティーズの本拠地スウラに最前基地を置きサーティーズとホンダ・レーシングは本気でF1チャンピオンシップ獲得を狙う。 結果として“RA300”(LolaT90 インディカー改造)でイタリア・グランプリに劇的勝利。 CAN-AMではマクラーレンに遅れをとり、総合3位に終わる。
そして68年。サーティーズはF1チャンピオンシップ獲得のため、68年型ホンダF1用車体をホンダ本社では製作せず、ローラ・カーズの新型車として開発。本社はV12エンジンを開発改良。 しかし、ホンダ本社は空冷エンジンを持つ市販車「ホンダ1300」の販売促進を重要視し、常識ハズレな強制空冷エンジン搭載の“RA302”開発を優先、サーティーズとホンダ・レーシングチームの“RA301”のエンジン開発は空冷エンジン開発の影響でストップ。 結果、改良改善が進む他チームに後れをとりシーズン敗退。 
CAN-AMではローラの新型 “T160”の期待外の性能で失速、自身初めてのシリーズ無得点で終了。
 その後のサーティーズは不振時代のBRM、マクラーレンM7CなどでF1選手権に参戦を続け、CAN-AMではジム・ホールのチャパラル・カーズと契約するも結果を残せず。 また、久しぶりに古巣フェラーリにスポット参戦し、フェラーリ512Sのステアリングを握るもかつての輝きは残っていなかった。

 その後は自らコンストラクターとなり、F1およびF2などを製作販売し、自らは71年いっぱいで現役を引退する。
しかし、引退後に来日した72年日本グランプリではダントツの速さで日本勢、およびタスマン勢を抑えて優勝している。
 
 

TOP : John Surtees and Lola T90 Ford in Indy-car rece.

END

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