The 2nd Place Ferrari 312PB
THE CHALLENGE 
OF LE MANS
The Winner Matro MS670
24 Hours of 
Broken Dreams
Sigma MC73 with Tetsu
The Sigma from Japan
Porsche Carrera RSR
We'd like to take a chance.
See you next time!!
Sigma MC73 driven by Hiroshi
(C) Photographs by Joe Honda
 いよいよコースに出ると、マトラ、フェラーリが猛烈な勢いで抜き去っていく。デイトナでの活躍ぶりから、僕らが密かに恐れていたポルシェRSRは意外に遅く、ストレートではスリップ・ストリームを使えば3リッターのマルティーニ・ポルシェ、フェラーリ・デイトナをも抜くことが出来た。面白かったのは、ミュルサンヌ・ストレート(ユーノディエール・ストレート)などで高速道路を走るように、追い越しをかけた車がウインカーを出しながら元の車線に戻るということだった。総じてマナーは断然良い。
 3リッター勢はさすがに速かったが、コーナーではそれほど驚くほどではない。ブレーキング・ポイントが、シグマより全然早いので、時には追突しそうになったこともある。
その点に関しては、ブレーキを持たす意味からも、彼らは24時間レースのペース配分を知り尽くしていると言って良いだろう。
 
 これはやはり1973年発行の「オートテクニック」誌8月号に記載されている「世界のヒノキ舞台、ル・マンに感動 by Hiroshi Fushida」より抜粋引用させて頂いたものだが、何もかもが初めての鮒子田の感動しながらの走行が手に取るように分かる一節だ。

TOP : Hiroshi had a second time drive at 1:00am.

TOP : Tetsu ( Leftside), Hiroshi ( cockpit) and Boss's Katou ( Center).
(C) Photographs by Joe Honda.
“午前2時30分” 
 午後9時50分、ダルボの乗ったシグマが予定外のピットに飛び込んできた。フロントのふらつきで走行出来ないというトラブルだった。約25分で再びタルボのドライブでコース上へ。
しかし、その後タルボが続けて2度ピットイン。原因は、フロント・ディスクになんとひびが入ったためだった。すぐに交換しなくてはならなくなり、その為に費やした時間はなんと2時間以上。さらにハブ・ボルトが熱にやられてホイールが外れないというトラブルも同時に発生し、シグマ・ピットはもうパニック状態に陥ってしまったのだった。
結局苦心さんたんし、アップライトごと交換してなんとかことなきを得ることとなる。しかし、ピットアウト後はその突貫修理の為かサスペンションにも不調をきたすこととなり再びピットインまたまた貴重な時間を失ってしまう。
ここで、再び鮒子田 寛がステアリングを握りコースへと消えていったのは6月10日午前1時09分をまわっていた。
 ブレーキパットとディスクを交換したのを忘れたわけではないが、ミュルサンヌ・ストレート(ユーノディエール・ストレート)の出口でブレーキを踏むのが遅かったため(といってもいつもよりは早めに踏んだが・・・)、そのまま真直ぐ行ってしまった。公道を閉鎖したストレートなので、僕はバックしてコースに戻り、再び走り始めた。
しかし、次ぎの周のシケインで、ついにクラッチがこわれ、走行不能となってしまった。何とかピットロード附近までマシンを導いたが(この地点からはクルーがピットまでマシンを押しても良い)、午前2時30分、ついにリタイヤした。

 上のコメントは、1973年発行「オートテクニック」誌8月号に掲載されていた「世界のヒノキ舞台、ル・マンに感動 by Hiroshi Fushida」から引用させて頂いたものである。
 シグマMC73のテストドライバーとして初めてステアリングを握った鮒子田 寛。なんということか、初挑戦のル・マンで善戦むなしくリタイヤした時にステアリングを握っていたのも鮒子田 寛であった。
何もかもが全て初めてだった鮒子田のル・マン。しかし、これが“鮒子田”と“ル・マン”との長い長い挑戦組曲のほんの序曲になろうとは当の鮒子田もさすがにまだ気づいていない。

 シグマ・チーム・オーナーの加藤 真はりタイヤを決めた後次のようにコメントしている。再び6月10日付け報知新聞(中島記者)のコメントを引用活用させて頂く。
 
 78周(約1064キロ)走ったことは大変な収穫だ。このレースがいかに大変なものか再確認した。

と初めての挑戦での数々の貴重な教訓を得たのである。
 また、生沢 徹も今回初めてのル・マン挑戦を終えて次のようにコメントを残している。
 

 5年前ワトキンスグレン(アメリカ)でポルシェに乗って耐久レースは経験しているが、この伝統のル・マンはやはり緊張した。長いレース生活でこんな思いは初めて。リタイヤは残念だが、うれしい気持ちでいっぱい。

そして、鮒子田 寛も次のように簡単だがコメントをしている。実に、鮒子田らしい(!?)コメントではないか。
 

 レースとはこんなもの。せめて夜明けまで走りたかった。
 鮒子田 寛、生沢 徹、そして、加藤 真らの初めての「ル・マン」挑戦は、惜しくも約10時間半の格闘むなしくリタイヤとなってしまった。そして、シグマは翌1974年もマツダ・ロータリーエンジン搭載の“シグマMC74”で挑戦することとなるのだが、まだまだ日本車がここ“ル・マン”で主役を演じるには時期尚早であった。
また、鮒子田 寛にとっての“ル・マン”は大いなる第1歩であった。そして、これから続くこととなる鮒子田 寛とル・マンとの長い付き合いは、この時点においては鮒子田自身、まだ予期出来ていなかったことだろう。
 鮒子田は、この後同じくシグマ・オートモーティブから1975年のル・マン24時間レースにも出場している。
この続きは、PART 2「新たな旅立ち ル・マン第2ステージ」で詳しくお伝えしようと思う。
また最後に、今回の「初挑戦 The First Challenge of Le Mans1973」において、多数の秘蔵写真を御提供頂いたモーター・ジャーナリストであり、プロ・モータースポーツ・カメラマンである“ジョー・ホンダ”氏にこの場を借りてお礼を申し訳しあげたい。
主宰者

SEE YOU NEXT TIME !!
PART 2「新たな旅立ち ル・マン第2ステージ」へ続く

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(C) Photographs by Joe Honda. Special thanks Joe Honda.