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これはやはり1973年発行の「オートテクニック」誌8月号に記載されている「世界のヒノキ舞台、ル・マンに感動 by Hiroshi Fushida」より抜粋引用させて頂いたものだが、何もかもが初めての鮒子田の感動しながらの走行が手に取るように分かる一節だ。 |
![]() TOP : Hiroshi had a second time drive at 1:00am. ![]() TOP : Tetsu ( Leftside), Hiroshi ( cockpit) and Boss's Katou ( Center). |
“午前2時30分”
午後9時50分、ダルボの乗ったシグマが予定外のピットに飛び込んできた。フロントのふらつきで走行出来ないというトラブルだった。約25分で再びタルボのドライブでコース上へ。 しかし、その後タルボが続けて2度ピットイン。原因は、フロント・ディスクになんとひびが入ったためだった。すぐに交換しなくてはならなくなり、その為に費やした時間はなんと2時間以上。さらにハブ・ボルトが熱にやられてホイールが外れないというトラブルも同時に発生し、シグマ・ピットはもうパニック状態に陥ってしまったのだった。 結局苦心さんたんし、アップライトごと交換してなんとかことなきを得ることとなる。しかし、ピットアウト後はその突貫修理の為かサスペンションにも不調をきたすこととなり再びピットインまたまた貴重な時間を失ってしまう。 ここで、再び鮒子田 寛がステアリングを握りコースへと消えていったのは6月10日午前1時09分をまわっていた。 |
上のコメントは、1973年発行「オートテクニック」誌8月号に掲載されていた「世界のヒノキ舞台、ル・マンに感動 by
Hiroshi Fushida」から引用させて頂いたものである。
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シグマ・チーム・オーナーの加藤 真はりタイヤを決めた後次のようにコメントしている。再び6月10日付け報知新聞(中島記者)のコメントを引用活用させて頂く。
と初めての挑戦での数々の貴重な教訓を得たのである。
そして、鮒子田 寛も次のように簡単だがコメントをしている。実に、鮒子田らしい(!?)コメントではないか。
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鮒子田 寛、生沢 徹、そして、加藤 真らの初めての「ル・マン」挑戦は、惜しくも約10時間半の格闘むなしくリタイヤとなってしまった。そして、シグマは翌1974年もマツダ・ロータリーエンジン搭載の“シグマMC74”で挑戦することとなるのだが、まだまだ日本車がここ“ル・マン”で主役を演じるには時期尚早であった。
また、鮒子田 寛にとっての“ル・マン”は大いなる第1歩であった。そして、これから続くこととなる鮒子田 寛とル・マンとの長い付き合いは、この時点においては鮒子田自身、まだ予期出来ていなかったことだろう。 鮒子田は、この後同じくシグマ・オートモーティブから1975年のル・マン24時間レースにも出場している。 この続きは、PART 2「新たな旅立ち ル・マン第2ステージ」で詳しくお伝えしようと思う。 また最後に、今回の「初挑戦 The First Challenge of Le Mans1973」において、多数の秘蔵写真を御提供頂いたモーター・ジャーナリストであり、プロ・モータースポーツ・カメラマンである“ジョー・ホンダ”氏にこの場を借りてお礼を申し訳しあげたい。 主宰者
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(C) Photographs by Joe Honda. Special thanks Joe Honda.