TOP : 1/43 scale Taki LolaT70MKIII with Hi-Wing in 1969 at Suzuka 300Kms. (C) Photographs and modifyed built by Sebring. TOP: The Wing Taki Lola in 1969 at 2nd Tokyo Racing Car Show. (C) Photograph by Hirofumi Makino |
68年日本グランプリにおける“タキ・レーシングチーム”の成績はTetsu が総合2位、片平が総合7位という結果に終わった。 期待のビッグ・マシン“Lola T70MKIII”は田中の1台が前半トップのニッサンR381勢と渡り合ってはいたのだが全てリタイヤに終わる。 その後、タキ・レーシングは国内でのレースに積極的に参加する。やはりブリヂストンやコカ・コーラなどの大手スポンサーの関係もあり、年一回の日本グランプリだけでは契約条件に満たない。 ところが日本グランプリであれだけ苦労していたローラのエンジンの耐久性などのトラブルが嘘のように解決し、その後出場した「富士1000Kmsレース」で総合2位、「NETスピードカップレース」ではなんと総合優勝と破竹の勢いでライバルのトヨタ7やニッサンR380A-IIIを圧倒する。 そして、68年の締めくくりとなった「68 ワールド・チャレンジカップ・富士200マイルレース」通称「日本カンナム」を迎える。 しかしながら、本場のカンナムマシンたちの実力は想像以上のものでタキ・レーシングから出場した2台のローラは、酒井 正のローラが辛うじて総合7位に入るのが精一杯だった。 日本勢では3リッターエンジン搭載トヨタ7の福沢が総合4位が最上位であった。 そして1969年を迎える。 その年は例年と違いいつも5月に開催されていた「日本グランプリ」が10月に、そして、いずれは太平洋選手権にするとJAFが構想するフォーミュラ路線を打ち出した「JAFグランプリ」を5月に開催すると発表。 タキ・レーシングもそれに合わせた方針転換に迫られる。 また、10月の日本グランプリは68年以上に排気量無制限のグループ7志向でありながら、レース距離は720KmというFIA耐久レース並というなんとも中途半端な規約改正となった。 一時タキ・レーシングがマクラーレン・カーズとの協力体制を築いたという噂を耳にしたが、どうも実現前に諸般の事情で立ち消えした模様だ。 滝 進太郎は、1969年5月に開かれる「JAFグランプリ」の規定が当時のフォーミュラ1(排気量3000ccまで)まで参加可能というレギュレーションを利用して壮大な計画を発表する。 「トヨタ7のV8気筒3000ccDOHCエンジンをトヨタからレンタル契約し、ブラバムF2のシャーシに搭載しエントリーする」 まさに「タキ・スペシャル」の誕生である。シャーシはTetsuの紹介で当時イギリスのF2チームを運営していたフランク・ウィリアムズが間に入りブラバムBT23C(と思われる)を2台を発注したのである。 しかし、3月には到着する予定だった2台のブラバムはいっこうに到着せずついにタイムリミットとなってしまった。滝は異例の謝罪文をオートスポーツ誌などに掲載、出場できなくなった理由を載せて謝罪した。幻のタキ・スペシャルは今だタキ・レーシングの語り草である。 68年を走り抜けてきたビッグマシン ローラT70MKIII であるが、詳細は不明だがテスト中に1台がクラッシュして廃車となり、1台のみが69年シーズンを戦うこととなっていた。 そして、この1台をより戦闘力を高める手段として考えたのがワイドタイヤの装着と空力アップであった。 69年レースシーンの最初を飾る「鈴鹿300Kmsレース」にタキ・レーシングはなんとウイング付きローラをエントリーしたのだ。 そしてワイドタイヤを装着するためのオーバーフェンダー化。前年までの柔らかなローラのイメージとは全く違うタキ・ローラの誕生であった。 鈴鹿300Kmレース後、このウイング付きローラは、ボディ全体をオープンボディに改装し、タキ・ローラとして69年日本グランプリまで現役を続けることとなる。 |
TOP : #14 Porsche 917 driven by Joe Siffart. This is ex-Union model 1/20scale. #16 Porsche910 driven by Hiroshi Kazato. This is Nagano model 1/20scale. From Taki Racing Team in 1969 Japan GP. (C) Photographs and built by Minoru Nogami. TOP: #17 Porsche 908 Spider driven by H.Helman/K.Tanaka. This is 1/32scale FLY models. From Taki Racing Team in 1969 Japan GP. (C) Photographs and built by Takehiko Sudo. |
TOP : About 1/18scale Taki Racing Track. (C) Photograph by Minoru Nogami and Hirofumi Makino. |
1968年度のタキ・レーシングチームの決算については、当時のオートスポーツ誌だっただろうか、僅かな黒字決算と書かれていたと記憶している。 しかしながら1969年度のタキ・レーシングチームは、レース戦績からも分かるとおり、かなりの赤字決算だったのではなかったかと想像する。 レース成績も良くない上に、日本グランプリではワークス・ポルシェに匹敵するドライバーとマシン、そして現役ポルシェ監督も招きいれてニッサン&トヨタのビッグマシンに対抗。 しかし、すでにプライベートチームがメーカーに対抗できる時代は過去のものとなっていた。 1970年初頭を飾る「鈴鹿300Kmsレース」にタキ・レーシング所属の最後のドライバーとなっていた“永松 邦臣”がポルシェ908スパイダーで独走優勝を飾る。 しかし、その後 永松はタキ・レーシングを去り三菱自動車の専属ドライバーとなり、その時点でタキ・レーシングチームは終焉を迎えることとなる。 1970年、ニッサンは排ガス規制(マスキー法)対策を理由に日本グランプリの舞台から撤退を発表。事を同じくしてトヨタも相次ぐ専属ドライバーの事故死などを理由にビックマシンによるレース活動を中止する。 ここにメーカー同士の熾烈な戦いはあっけなく終止符が打たれた。 その後、メーカーは市販車中心のレース活動を続けることとなる。 そして、1971年から始まった「富士グランチャンピオンシリーズ」は日本グランプリを彷彿させるビッグマシンの戦いを再現しようと始まったシリーズであったが、その後の富士グランチャンの方向性を決定づけることになる シェブロン、マーチ、ローラなどの2リッターマシンの登場と自動車メーカー専属ドライバーの単独参戦なども手伝って大いに盛り上がりをみせる。 メーカー色のないプライベートチーム同士の戦いとなった富士グランチャンシリーズ。 多くのプライベートチームの活動が盛んだが、そのお手本となったのは、メーカーに対して孤高の戦いを挑んだ “タキ・レーシングチーム”に他ならない。 |
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(C) Photographs by Hirofumi Makino. |