細谷四方洋 新しい富士を走る!!

(C) Photograph by Yuji Satou.
Special thanks Shihomi Hosoya.
 最近の細谷四方洋の活躍は、目を見張るものがある。同時に氏は、当時のレースで養われたトヨタの技術力を改めて世に紹介する役目も担いながら日本における代表的なヒストリックカーイベントに精力的に参加されている。
 2005年4月10日に行なわれた新しい富士スピードウェイの門出の日にも、細谷四方洋はトヨタ7と共に富士にいた。
1960年代後半、チーム・トヨタのキャプテンとして引っ張ってきた細谷は、やはりこの日の主役の1人といって間違いない。若いファンからすると「細谷四方洋」や「トヨタ7」は過去のものかもしれないが、我々60年代を楽しんで来たファンからすると、その名前を聞くことにより青春が蘇る思いなのである。
さらに、このニュー富士スピードウェイのオープニング・イベントには、T.N(トヨタ、ニッサン)の激突に沸いた60年代後半の日本グランプリを再現するかのような素晴らしい企画が立てられていた。
時を同じくしてレストアされたトヨタ7のライバル「ニッサンR382」がなんとトヨタ7と共に富士を走るというのだ。
ドライバーこそ黒沢元治ではなく高橋国光であるが、69年日本グランプリのウイナーであるイエローの#21ニッサンR382と細谷四方洋ドライブの白地にブルーのトヨタ7(当時、NAエンジン搭載のトヨタ7は、久木留博之がドライブを担当していた)のランデブー走行が見られるというのだからファンとしてはたまらないプレゼントだ。
 このようにトヨタ、ニッサンが60年代日本グランプリ時代のマシンたちをぞくぞくとレストアしている現状を見ると、やはり真の世界的メーカーになるための絶対条件であるモータースポーツへの姿勢を理解したと言って良いのではないだろうか。世界的メーカーであるメルセデス・ベンツ、BMW、ポルシェなどヨーロッパの一流メーカーは、過去のモータースポーツを本当に大事にしている。それらの活躍があったから現在があるということを理解し、信念としていることからもメーカーの“歴史”という重みが出来上がるのだ。そして、それが一流メーカーの証しなのである。
過去、日本人気質とでも言った方が良いのだろうか、日本のメーカーのほとんどが過去の栄光のマシンたちを過去の遺物として葬ってきていた。60年代のモータースポーツは、日本人にとってスポーツではなく、メーカー同士の戦いの場所であり、戦争だった。勝者も敗者も終われば過去のもの。二度と日の目を見ることがない飽くなき戦いだった。そんな日本独特の土壌の中で育ち、排ガス規制などもあっただろうが一夜にしてそれらのマシンたちは我々の前から姿を消していった。まだまだ、その時代、意識の上で日本の自動車メーカーは、世界のメーカーと比べてレベルが低かったのだと思う。
 いち早くそれに気づいたのは、1960年代、日本のメーカーとして初めてオートバイやF-1で世界を走ったホンダだった。毎年開かれているヒストリックカーの大イベント「グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード」にレストアされた世界選手権出場のバイク達やF-1ホンダRA300(1967年イタリアGP優勝車)を名手ジョン・サーティーズらと共に参加したことでわかる。
その後、トヨタも2002年にトヨタ7と共に参加し、トヨタモータースポーツの歴史を世界に示すことを開始した。
それに伴って、トヨタ自動車は、トヨタ7の育ての親と言うべき“チーム・トヨタ”の功績をあらためて認めることとなる。そして、チーム・トヨタのキャプテンであった“細谷四方洋”の存在はますます大きな存在となって現在に甦ったのである。

TOP : Kunimitsu Takahashi ( Leftside) and Shihomi Hosoya in a new Fuji S.W.
Special thanks Nostalgic Hero and Shihomi Hosoya.

TOP : Kunimitsu Takahashi and his #21Nissan R382( Leftside).
Toyota 7 with Shihomi Hosoya( Rightside).
Special thanks Nostalgic Hero and Shihomi Hosoya.
 細谷四方洋のデビュー戦は、1963年に開かれた第1回日本グランプリだった。その時はプライベートとしてトヨタパブリカでの参加である。
その後、すぐにトヨタに入社した後の細谷四方洋の活躍は、ご存知の通りである。チーム・トヨタのキャプテンとして日本グランプリはもとより、国内の耐久レースに積極的に参加。そして、ほとんどのレースにおいて良い結果を残している。結果を残せる訳はと以前細谷氏にうかがったことがある。その時、氏はそれぞれのマシン設計の初期段階から自分が関与していることがよりマシンの理解を深め、結果的に良い成績を生んでいると答えていたが印象的だった。
 1966年、それまでの鈴鹿サーキットから富士スピードウェイに移っての第3回日本グランプリでは、レース専用マシンを持たないトヨタ自動車は、67年から市販予定のトヨタ2000GTをレース用に改造したマシンで参加するも、ブラバムシャーシを使ったプロトタイプカー“プリンスR380”に当然の如く敗れ去った。
1967年は、トヨタ静観の年。プロトタイプカーを持たないトヨタは、日本グランプリには不参加だったものの、世界記録、国際記録を狙ったトヨタ2000GTでのタイムトライアル、そして、国内の耐久レースにトヨタ2000GTで参加したにとどまった。
 1968年、T.N.Tの激突と言われた68年日本グランプリ(通算5回目)にトヨタとしては初めてのプロトタイプカー(グループ7仕様)“トヨタ7”を参加させた。搭載されているDOHC V8 3000ccのエンジンは、トヨタ製。シャーシも自社製と全てオリジナルだ。しかし、何もかも初めてのトヨタ7に勝利の美酒は訪れなかった。
一方、1966年にプリンスを吸収合併したニッサンは、その技術陣を手に入れ、R380II、R381と次々とニューマシンを日本グランプリに投入。勝利を手に入れていた。
しかし、細谷からすればニッサンのやり方はトヨタと全く違って見えていた。「勝つためには、自社製を開発するよりも実績のある外国製のエンジンやシャーシを手に入れれば簡単ではないか」。
こんなことがあったという。1969年の日本グランプリのために、トヨタはV8 DOHC 5000ccエンジンを開発していたのだが、どうもうまく作ることが出来ないでいた時の事だ。「我々も外国製の強力なエンジンを積めば勝てるのではないか!」と細谷。
その時そばにいた豊田英二氏は血相を変えて細谷を怒鳴りつけた。
「細谷、勝ち負けも大事だがトヨタがレースをやる目的は、技術の蓄積なんだ」
細谷は、その言葉でトヨタの凄いところを理解したという。
この時代の技術の蓄積(タイヤ以外は全て自社製)は、すべてチーム・トヨタで養われたものだ。そして、そのメカニズムは確実に現在のトヨタ車に生かされていることを我々は忘れてはならない。
 細谷四方洋が遂に成しえなかった海外でのトヨタ7の勝利。我々は現在のトヨタF-1に置き換えて待ち続けている。最後に細谷氏には、これからもずっとトヨタ7を走らせ続けて欲しい!ありがとう、細谷四方洋!!
 

END



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(C) Photograph by Yuji Satou.

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