TOP : Team Magnum's Lola T290 with Mitsubishi R39B engine.
(C) Photographs by H.Makino.
 60年代の日本モータースポーツ界において、ポルシェというとどうしても“生沢 徹”を思い浮かべてしまうのはわたしだけだろうか?!
第2回日本グランプリでの式場壮吉のポルシェ904GTSに1度だけながらスカイラインでトップに立った生沢。第4回では、906を駆っての優勝。
910においては、68年日本グランプリで総合2位。さらに、当時のポルシェ・ワークスのボス フォン・ハンシュタインに認められてマニファクチャラーズ選手権 ブランズハッチ500マイルでは、登録ドライバーに。そして、翌68年には、ワトキンスグレンでは、ついにワークス908のステアリングを握り総合6位。その後ル・マンでは、ポルシェ935K3で走るなど生沢 徹とポルシェのイメージは凄まじく強烈だった。

 60年代の日本レース界では、ポルシェと共にどうしても欠かすことが出来ないのはやはり“ローラ”であろう。
以前「いとしのローラ」という特集を書かせていただいたことがあるが、ポルシェとローラは、日本レース界において外国製レーシングカーの代名詞だった。ある時期、酒井 正のデイトナ・コブラ、滝進太郎の906、そして、安田銀次のローラT70は日本レース界の3人組ならず3車組と言われたものだ。(下の画像は珍しい3台揃い踏みのレース)


TOP : Porsche 906(Leftside), LolaT70(Rightside) and Daytona Cobra in 1967.
 今回東京レーシングカーショーで日本デビューを飾った“Lola T290”は、ローラ・カーズがヨーロッパ2リッター選手権の成功作“Lola T210 &212”の後継車として開発したマシンである。また、1972年は、前年までメーカー選手権をリードしてきたフォードGT40、ポルシェ917、フェラーリ512S/Mが規定改正により締め出され、3リッタープロトタイプマシンによる争いとなっていた。ローラもスポーツカー“Lola T70MKIII/IIIBが参加できずにいたが、2リッターマシンとCAN-AM用“T260”の成功により、それらの中間的マシン“T280”を開発、エンジンにはコスワースDFVを搭載し参戦し始めていた記念すべき年であった。
 日本レースファンにとってローラは速い車の代名詞であり、このローラT290と三菱R39Bエンジンとの組み合わせは最強の2リッターマシンに見えていた。事実私も東京レーシングカーショーにおいては、第2代富士グランチャンピオンは、永松選手のものになると思っていた記憶がある。
 車名は、スポンサー名を取って「ロンソン2000」となっており、スポンサーネームでの車名登録が始まった時期であった。
ミノルタ・マクラーレン、オンワード・スペシャル、スタンレーT280など色々である。ちなみに、当時たばこを吸うためにわざわざロンソンライターを買ったのもこの時期であったと記憶している。
 ロンソン2000のチームは、あの田中健二郎氏がチーム監督を務めていた。田中健二郎と言えば、やはり“ローラ”と切っても切れない人物だ。68年日本グランプリでは、あのニッサンR381と唯一トップを争ったドライバー。そして、完走出来ないビッグ・マシン“Lola T160”を優勝させたドライバーでもあった。

TOP : Chevron B21P(Top), Porsche908II(Leftside) and Isuzu BelletR6spaider.
(C)Photographs by H.Makino.
 1972年富士グランチャンピオンは、前年の排気量無制限マシンによるシリーズドライバーズチャンピオン争いは終わりを告げ、2リッターマシンによって争われることとなった。2リッター以上の排気量を持つマシンについては、72年に限り参加が許されるが、ポイント圏内に入賞してもシリーズポイントは与えられない。よって、上の写真のポルシェ908IIやマクラーレンM12は、毎レース入賞賞金のみを狙うこととなる。
 このレーシングカーショーには出展されていないが、若手成長株筆頭の高原敬武選手は、前年のローラT212を渡辺 一選手に売却し、あえて自らは2リッターマシンを選ばず総合優勝のみを狙うべき最新のメーカー選手権用3リッターマシンである“Lola T280 DFV”を選んでいる。これも1つの考え方であろう。

 一方、70年初頭にチーム・トヨタのエースドライバーの座を捨ててインディ500出場の夢を抱えてアメリカへ武者修行に旅だった鮒子田 寛選手は、70年にコンチネンタルF-Aシリーズに挑戦し、3位表彰台などを得て確かな手応えを感じ71年シーズンへ望んだが、Tran-amシリーズに挑戦中、ドライバー生命も危ぶまれるほどの足の骨を折る重傷を負ってしまう。結局鮒子田のアメリカンドリームは夢半ばで諦めることとになってしまった。
そして72年。傷が癒え活躍の場を再び日本に戻した鮒子田 寛は、最高の盛り上がりを見せつつあった富士グランチャンピオンシリーズに挑戦することとなったのだ。その鮒子田の天下取りマシンが上の写真の“Chevron B21P”であった。元ワークス・シェブロンのマシンであったこのB21Pは、本命ロンソン2000と並んでショー会場で注目の的であった。


TOP : "KI-FJ-II ( Formula J500)"(Leftside), "REON-72-F"Contest top prize(Rightside) 
and Suzuki Fronte Coupe Mini car Racing( 3 cylinders 356cc).
(C) Photographs by H.Makino.

 
 
 60年代後半より、日本独自の軽自動車でのレースが盛んに行なわれるようになってきた。フォーミュラJ500やエバ・カンナムなどで有名なミニカーレースである。排気量は、軽自動車360ccをボアアップしたエンジンが主流だった。
また、コンテスト参加作品もFJが多く、今回特選となった“REON-72-F”も然りである。左の小島エンジニアリング製作のKE-FJ-IIは、その後頂点に立つF-1マシン製作まで進むまさに原点の作品であった。
 フォーミュラ路線を推進するJAFの狙いは、底辺にこれらFJがあり、トップカテゴリーにF-2 か F2000があり、その中間を日本の主力自動車である1000ccから1300ccのエンジンを使ったカテゴリーを作ることだと思われる。この当時にF-1はまだまだ遠い時代であった。

TOP : The model car contest currently held simultaneously.
 モデルカーコンテスト 

 昨年より始められたこのモデルカーコンテストは、あまりにも第1回のインパクトが強すぎてしまう。私も今となってはこの第2回目の記憶があまりないのが正直なところである。
参考資料を見ると、審査メンバーが凄い。望月 修氏(三菱ワークスドライバーで模型評論家)、秋本 実氏(モデルスピードライフなどでも有名な当時の模型製作の巨匠)、杉崎英明氏(前回の特選で、モデルスピードライフなどではバルサのボディ製作などで我らの憧れのモデラー)、田宮俊作氏(田宮模型常務取締役 当時)、そして、鈴木修巳氏(三栄書房代表取締役 当時)である。
 参加作品は、300点以上というから当時の状況(田宮模型から1/12スケールシリーズが数多く発売されていた時代)からすれば、多い方なのではないか?!
改造方法を見ると、バルサ材を多く使用し、パテ等で加工しているのが多い。レジン等がまだまだ普及していない時代は、バルサとパテ、そして石膏が主流である。そして、塗装についてもまだ筆塗りが基本で、吹きつけ用の当時の殺虫剤ポンプのような道具もありはしたが、どうも粒子が粗かったように記憶している。
余談も余談であるが、1972年と言えば、私も僭越ながら模型作りに没頭し(ただし、スロットカーであるが・・・)、石膏で原型を作り、塩ビ板をバキュームしてクリヤーボディを盛んに作っていた時期であった。そして、無謀にも今は無き巣鴨サーキットで250円で販売させて頂いていた。

 以上が第5回東京レーシングカーショーの私が記憶している内容である。全貌を見るためには当時の掲載記事を見るのが一番であるが、雰囲気だけはお伝え出来たかと思っている。ショーの規模は現在のオート・サロンと比べものにならないが、当時の若いデザイナーたちの情熱や熱意は負けないものがあったと感じている。
 では、この辺で「第5回東京レーシングカーショー」特集を終わりたいと思う。お付き合い頂きありがとうございました。
 

END

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(C)Photographs, textreports by Hirofumi Makino.

Special thanks Sanei Shobou.