1972年・・・・。

 本題に入らせていただく前に、どうしてもこの1972年という年に起きた事を書かせて頂きたく思う。お許し願いたい。
昨年、2012年12月16日。当方の58歳となる誕生日。これはどうでもよい事なのであるが、この日、LIVEで衛星放送された「ザ・ローリング・ストーンズ 50周年記念ライヴ」には感激してしまった。1990年に初来日した東京ドーム公演は、3回ほど見に行ったが、この放送は特別であった。特に名曲「ミッドナイト・ランブラー」が始まって、ミック・ジャガーが「ミック・テイラー!!」と叫んでミック・テイラーが登場し演奏した時には涙が出てしまった。
 ストーンズに関心がない方々には興味ない話かもしれないが、この出来事は、私にとって1972年に通じている大切なことだったのだ。実は、1972年にストーンズは、初の日本公演を武道館で行なうはずであった。当時高校3年であった私は、学校をさぼってその公演チケット購入用の整理券をもらうためにチケット屋に並んでいたのだ。そして、待望の整理券を得て後は発売を待つのみであったのだ。
しかし、絶頂期にいたストーンズの来日公演は実現することはなかった。当時のストーンズは、薬や大麻など問題が深刻であり、来日は不可能になってしまったのだ。当時のメンバーにいたのが、ミック・テイラーだった。ストーンズ最高のギタリストと言われながら70年代中盤でストーンズを脱退。1990年の日本公演ではその後加入したロニー・ウッドがそのポジションにいた。
 それだけに12月16日のミック・テイラーのゲスト参加はただただ涙だったのだ。幻の日本公演を40年後に見れたのだから・・・。

 本題から大きくそれてしまった。年寄りの独り言と思ってくれればありがたい。
 

 東京レーシングカーショーに行くのは第5回を入れて4回目である。(第1回 第2回 第3回 第4回
開場は、当時の「東京モーターショー」と同じ 東京・晴海・国際貿易センター東館で行なわれる。
有楽町からバスで行くのが私のいつものコース。今回は、3月10日から12日の期間において、中日の3月11日に行くこととなった。
ちなみに入場料は、当日売りで大人/300円、小・中学生/200円。当時の物価としてはこんなものか?!

 今の「オート・サロン」の元になったイベントがこの東京レーシングカーショーである(三栄書房内に東京レーシングカーショー事務局がおかれていた)。当初は、ロンドン・レーシングカーショーの日本版を目指して行なっていたのだが、70年代になると、ニッサン・トヨタなどのファクトリーレーシングカー時代が終わりを告げると同時に、日本製コンストラクター生育を兼ねてのレーシングカー・コンテストが開かれる場として人気を博してきた。エバ・カンナムのエバ・カーズ、林みのる率いるマクランサなどが東京レーシングカーショーで育った代表格だ。

 今回の第5回は、それら若手コンストラクターコンテスト作品とは別に、過去のショーにはなかった特徴が数多く見受けられた。その中の1つが昨年(1971年)より始まった「富士グランチャンピオンシリーズ」用のヨーロッパ製2リッターマシンの展示である。それらのマシンは、プライベーターが輸入したものだが、あの日本グランプリを制覇したコルトF2000のエンジンがレンタルされるなどの出来事も加わり、新しい時代の幕開けを期待させるに十分な内容であった。また、日本独自の軽自動車エンジンを採用したカテゴリー「F-J」レース用のマシンも多数展示され、F-Jレースに対する期待も大いに膨らむ。
確実に新しい時代に移行していく日本モータースポーツを実感できるのも今回のレーシングカーショーの特徴だった。



TOP : These are an official program and an admission ticket. 
 上の画像は、第5回東京レーシングカーショーの公式プログラムとオートスポーツ誌4/1号特別付録誌、そして、同年3月11日に私が買った入場券である。右には、当時の「オートスポーツを楽しむ会」の会長であったあの“石原慎太郎”氏のコメントである。
同氏は、初日の会場でのあいさつにおいて「生沢 徹は、日の丸をしょってヨーロッパでガンバッテいる。こうしたドライバーたちをおおいにバックアップしよう!」と話している。当時は、音楽家の三保敬太郎(当日の夜開かれたミッドナイト・パーティでの総合司会を担当)など多くの著名人がモータースポーツを楽しみ、そして応援したことがわかる。

 さて、晴海・国際貿易センター東館の中でどのように今回のレーシングカーショーが展開されていたのか図面があるので、ご覧ください。

第5回登場レーシングカーショー会場図面

 入り口を入りすぐ右手に71年富士GCで活躍した風戸 裕選手のポルシェ908IIがまず目に入る。そして、メインストリートの正面中央には一段高いマインステージがTの字に設置されていて、今シーズン活躍するであろうマシンたちが展示されている。このショーの特徴は、モーターショーと違い、自動車メーカー色が強く打ち出されておらず、メーカーコーナーはあるものの、名前の如く昨年の主役レーシングカーや今年に活躍するであろうレーシングカーを中心に構成されているところが素晴らしいと思う。
 会場を見るとマナ、オトキチ、ファントム、リバーサイド、長沢レーシング、鴻池、RQ、小島レーシングなどのプライベーターチームのブースが並んでいる。シーサイド・モータースと書かれているのは、後のスーパーカーブーム時のショップだろうか?!
展示コーナーには、嶋田洋書の名前が!当時から自動車洋書では有名だったということであろう。
 2階展示コーナーを見ると、故・浮谷東次郎のロータス・エラン、トヨタS800、そして、式場壮吉が乗って第2回日本GP GT-IIで優勝したポルシェ904GTSなども展示されていた。(当方あまり記憶にないのはどうしてだろうか?!)
そして、恒例となっている「モデルカーコンテスト」会場も2階にある。昨年のポルシェ917は感激物であった。
1972年の主役登場 !! 


TOP : Hiromu Tanaka's March 722 Colt R39B.
(C) Photographs by H.Makino.

 メインステージでまず目に付いたのは、新興コンストラクターとして人気のあった“マーチ・エンジニアリング”の主力フォーミュラ2マシン“March 722”であった。その年、風戸 裕も同型マシンでヨーロッパF2選手権に挑むということもあり、とても興味あるマシンであった。
オーナーは、ヒーローズ・レーシングの田中 弘。昨年、富士グランチャンにシェブロンB19を持ち込み、日本モータースポーツ界にカルチャーショックを与えたヤング・ヒーローが今年の日本グランプリ制覇を目論んで輸入したものである。
そして、そのリヤエンジン部には、昨年の日本グランプリで圧倒的な強さを見せ付けた三菱の秘蔵エンジン“R39B”が載せられていたのだ。今年から三菱ワークスは第一線から退いたものの、そのエンジンを個数限定ながらもレンタル可能となり、ヒーローズ・レーシングはその最強のエンジンを手に入れることが出来たのだ。
 先日JAFより急遽発表された日本グランプリへの“ビッグ・ジョン”参戦のリリースを受けてもなお、最強のエンジンを得た田中の日本グランプリ制覇は可能かに思えたのだが・・・。
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(C) Photographs, textreport by Hirofumi Makino