TETSU を振った三菱との対決 “71' 日本グランプリ”と 風戸 裕
の決断 2年連続リタイヤに終わった Tetsu のJAFグランプリ。1971年、日本グランプリの冠をつけたグランプリにもう一度と持ちかけたTetsuだったが、タキ・レーシングの崩壊後、永松邦臣が昨年から三菱チームと契約していたことと、少数精鋭方針に切り替えたこともあり、Tetsuの望みは叶わぬ夢となる。しかし、日本グランプリ参加はTetsuの活動の源となり、スポンサー契約の延長や新規スポンサー獲得のためにも是が非でも参加しなければならない使命がある。 そこでTetsuは、最後の手段として、ヨーロッパF2選手権での愛車 “ロータス69 FVC” を持ち込むことを決断する。 Tetsuは、昨年の1970年の4月に西ドイツ ホッケンハイムで行われた「ジム・クラーク・メモリアル・トロフィレース」において、1970年型のロータス69で、フェラーリのドライバーとなる クレイ・レガゾーニ と一騎打ちを演じ、わずか0.3秒差で2位となっている。三菱以外でポテンシャルの高い車はそうはない。それであれば、自身のロータス69を持参した方がよほどましだとTetsuは考えた。 69年日本グランプリに ポルシェ910 で参加した若手のホープ“風戸 裕”も飛躍の機会を狙っていた。すでにニューマシン “ポルシェ908II” を昨年購入し、今年も富士グランチャンに参戦しながら、このフォーミュラカーによるグランプリにもエントリーしている。皮肉にも風戸はTetsuを振った三菱チームからマシンレンタル契約を結んでいた。メインの2000ccエンジンのレンタルではなかったが、前年の1600ccエンジンをブラバムBT30に積んでのもので、十分上位を狙えるマシンと言える。 また、風戸は今年のCAN-AMシリーズに果敢にも挑戦する計画を持っており、その準備も着々と進んでいるようだ。まさに飛ぶ鳥落とす勢いの風戸 裕である。 このレースのみに集中している三菱チームの “コルトF2000” は抜きん出たスピードを誇っていた。Tetsuのロータス69FVCではとても太刀打ち出来ない。コルトF2000は、富士の6Kmフルコースを1分48秒を切る勢いで走行する。Tetsuは良いところ49秒台前半だ。タスマン勢も好調で、M.スチュアートやG.ローレンスなども侮れない存在だ。 5月3日、晴天。ポールポジションは、永松のコルトF2000。2位も益子のコルト。3位は好調のM.スチュアートで、Tetsu は、最前列左に座る。 このレースは終始三菱勢がリード、Tetsuはスタートから三菱チームの作戦に翻弄され、永松先行逃げ切り、益子のブロック作戦によりM.スチュアートとの3位争いに切り替えざるをえなかった。 結果は、永松の独走優勝。益子が2位。Tetsuは、グランプリ3レースぶりに完走し表彰台をゲット。なんとか面目を保つことが出来た。
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我が母校は、水道橋の駅前にある古きコンクリート作りの巨大な校舎が目立つ都立高校だ。目と鼻の先には後楽園遊園地があり、まだ東京ドームが出来る前の 後楽園球場 が見える位置にある。 1971年7月17日、午後から天候が崩れ雷雨となっていた。私は、機械科の授業を受けながら、ふと窓から見える後楽園球場から何やら野太い音が途切れ途切れ聞こえてくるのを感じた。稲妻が鳴り響く中で後楽園球場で何かが行われているようだ。 実はこの日、G.F.R の野外コンサートが後楽園球場で初めて行われていたのだ。G.F.Rと言ってもグラスファイバーではない。ヘビーなサウンドで人気上昇中のロック・グループ “グランド・ファンク・レイルロード” の日本公演だったのだ。嵐の中のコンサートはこの後伝説として語り継がれていくのだが、その時の前座が面白い。当時ヒット中の「霧の中の二人」のマシュマッカーンだ。プロレスラーの キラー・カーン とは無関係の間柄だが、あまりにも違う G.F.R とのサウンドでよくツアーコンビを組んだものだと思う。 TETSUの執念 “ 激突!!富士マスターズ250Km” 富士500Kmが終わり、いよいよ次はグランチャン最終戦 10月10日体育の日に行われる“富士マスターズ250Kmレース”だ。 またしても招待券が当たった。このレースは、今現在も特別な思いがある。それは、初めてTetsuが勝つためのマシンを用意し戻ってきたからだ。今まで年一回の日本グランプリに絞って帰国していたTetsuだが、この年は違った。 71' 日本グランプリ にロータス69で参加して3位。そして、シリーズ戦の1戦であるグランチャンの最終戦にもエントリーしてきたのだ。それだけ、Tetsuの目から見て、初年度とは言え富士グランチャンの将来性を高く評価したからこそのエントリーだと言える。 このニュースは、当時のAUTO SPORT誌でも事前に紹介され、私も友人H君も日本グランプリ以来の興奮に踊らんばかりであった。 しかも持ってきたマシン Porsche 917K は、69' 日本グランプリでジョー・シファートが乗った917そのものであり、ボディを最新の917Kに変えただけの富士を知り尽くしたマシンだったのだ。オーナーは、映画「栄光のル・マン」の撮影中に足に致命的な傷を負ってしまったパイパー爺だ。それ故、Tetsuは、富士6Kmフルコースのギア比は万全と踏んでいた。 下の写真は、自信満々でレース前のインタビューに答える“Tetsu”。
10月10日は過去晴れる確立が高い。69年の日本グランプリ、70年の日本オールスターレース、そして、古くは1966年の東京オリンピックと晴天が続いている。それなのに・・・それなのに・・・、1971年の10月10日はなんと大雨だ!!それまで真面目に授業を受けて横道にそれることなく(!?)生きてきたのに何故なんだ!! しかし、71年の富士グランチャンは、雨にたたられることが続いていた。記念すべき第1戦と私が初めて見た第3戦だけが晴れで後はすべて雨だったのだ。それ故、フェアレディ240Zが上位に入るケースが発生し、男は黙っての 酒井 正 と Z の王者 柳田春人とのチャンピオン争いとなっていた。 レースは、マクラーレンM12 に乗る 男は黙っての 酒井 正 と 近年頭角を現してきた トニー・アダモウィッツ の2人が予選1〜2位の勢いのまま大雨の中でもトップを併走。予選3位期待の Tetsu は、レインタイヤおよびギヤ比の問題でトップ争いに絡むことが出来ない。ところで私たちはというと、メインスタンド下のトンネルからヘアピンへ向かい、ヘアピンからTetsuの応援に回ることにした。ところが、一向にスピードに乗り切れないTetsuは、なんと風戸のポルシェ908に抜かれてその時点で2位。酒井とアダモウィッツは、トラブルを抱えて下位に落ちている。レースはそのまま変化なく終了し、風戸 裕 のグランチャン初優勝で幕を閉じた。Tetsu はまたしても優勝を逃した。「落ちた偶像」というありがたくない言葉が容赦なく Tetsu に浴びせられたのもこの頃からだった。
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71' Porsche 917K Tetsu Ikuzawa |
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Man does not say the extra thing"Tadashi Sakai"and McLaren M12. "TONY ADAMOWICZ" and his McLaren M12. Tony & Sakai !! Noritake Takahara & Hiromu Tanaka. New Lola T212 & Chevron B19. (C) Potographs by H.Makino. |
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