日本グランプリ・ロスの余韻。
“富士グランチャン”の誕生と“グラム・ロック”の台頭


 高校生となった私は、板橋の実家から都営地下鉄に乗り、水道橋駅前にある高校に通学していた。
しかしながらいまだに忘れられないことがある。それは登校初日のことだった。教室に1時間目の授業を待っているといきなり上級生が10数人教室に乱入して来たのだ。そして、リーダー格の上級生が一声。「我が母校の応援歌だ」と言ったかどうか忘れたが、応援団さながらに歌い、いや怒鳴り声に近い歌い方で歌いだしたのだ。結局、高校の校歌はまるで覚えていないが、この応援歌はいまだに忘れられないでいる。
やはり昭和初期より開校しているこの都立高校は旧態然とした伝統(!?)が今も後輩たちにより受け継がれているのではと想像する。一度現役の後輩に聞いてみたいものだ。
しかし、一番参ったのは私が入った「機械科」は一応男女共学であるのだが、考えてみればまず女の子が入ろうとする科ではない。我がクラス40人の内、女子は僅かに3名という少なさ。それに引き換え「デザイン科」や「室内工芸科」はほぼ男女の比率が同じという現実。ああ、デザイン科を選ぶべきだったか・・・と3年間悔やんでいた私である。

     

 さて、ビッグ・マシンによる日本グランプリがいきなり消滅し、我々世代のレースファンはきっと今で言う「日本グランプリ・ロス」に至っていたことと思う。一方、映画「栄光のル・マン」に代表されるFIA世界メーカー選手権は、本来主役にさせるべくFIAが規約変更した3リッター・プロトタイプマシン(3リッターF1のエンジンを当てにしていたと思われるが・・・)は不評で、皮肉にも25台生産義務のあるスポーツカークラス(エンジン排気量が5リッターまで許される)は、フェラーリ512S VS ポルシェ917との全面対決が話題となり、ますます盛り上がりを見せていた。そして、遂にFIA公認レースとなったCAN-AMシリーズもブルース・マクラーレンの事故死という暗いニュースがあったものの、投影面積がマクラーレンの半分というキャッチフレーズの“AVSシャドウ”や地を這うバキュームカー“チャパラル2J”、そして、新興メーカー マーチ・エンジニアリング が送り込んだ“マーチ707”などの登場により、こちらもまだまだ人気の陰りが見えない。
また、同じアメリカンなレースでも特にアメリカ人に人気だったのが映画「レッドライン7000」に代表される“ストックカーレース”だ。7リッター級プッシュロッドOHVエンジンをフルチューンしたフルサイズアメリカンマッスルカーが、デイトナオーバルコースやリバーサイドをぶつかり合いながらレースをする。まさに格闘技のようなレースである。

     

 そう言えば、カーレースではないが、60年代後半から70年代半ば頃、日本で人気だった「ローラー・ゲーム」も車を人間に置き換えたような競技だった。私は1970年前後に東京12チャンネル(現 テレビ東京)で放送されていたローラー・ゲームを欠かさず見ていた一人だ。というか、私の両親が熱狂的なファンだったのである。なんとローラー・ゲームが日本に初めて来た時など、私を家において代々木体育館(たぶんそうだったと思うが・・・)に観戦に行ってしまったほどの熱中振りだった。私もその影響を受けてテレビではかぶりつきで見たものである。一番よかった時代のローラー・ゲームの映像をこの前沢山見つけた。ロサンゼルス・サンダーバードは正義の見方。男女が交互に試合をする仕組みだが、やはりアメリカだ。ショー的要素を含んだエンターテイメントなゲームとして成り立たせている。殴る蹴るは反則だがレフリーの目をかすめて繰り出す。サンダーバードの男性チームキャプテン“ラルフ・ヴァラディアス”、ダンプカー異名をとる“ダニー・ライリー”、そして、テクニシャン“ロニー・レインズ”。女性チームでは“ジュリー・ソーウィンスキー”そして、“リズ・ヘルナンデス”などが大活躍。そうそう、60年代後半の68年に日本チーム「東京ボンバーズ」も誕生した。“佐々木ヨーコ”そして、“角田 誠” 今何しているのか・・・。

     

 大きく横道にそれてしまったが、1970年の日本レース界はというと・・・・。まだ雪がコース淵に残る鈴鹿で開かれた 鈴鹿300Kmレース において、昨年の 69' 日本グランプリ にエントリーはされていたものの、姿を現すことのなかった “フォードGT40” がガルフカラー風のカラーリングで登場。田中健二郎のドライブで日本デビューを果たした。迎え撃つタキ・レーシングの ポルシェ908スパイダー は、今はただ一人のタキ・レーシング契約ドライバーとなってしまった 永松 邦臣 がステアリングを受け持つ。雰囲気はまるで昨年のマニファクチャラーズ選手権を争うワークス・ポルシェとJ.W.フォードGT40の対決を彷彿させるが、実際は フォードGT40 がまだまだ本調子でなかったこともあり、永松のポルシェの独走に終始した。このレースについては以前に知人の“伊吹 直文 氏”のご好意で、貴重な写真と共に紹介しているのでご覧あれ。
このレースが実質的に タキ・レーシング・チーム の最後のレースとなってしまったことは誠に残念である。
 
「フォードGT40が鈴鹿を走った日」

そして、1970年の他のレースでは、富士300マイルレースに おいて、ニッサンが昨年の日本グランプリ以来のR382を参戦をさせるも、これを最後にビッグ・マシン開発から撤退。そして、排ガス規制対策に専念するとして、日本グランプリ不参加を表明。そして、残るトヨタは、その時点では日本グランプリに出場予定であったようだが、夏の鈴鹿で新しい ターボジャージド トヨタ7 のテスト中に起こった 川合 稔 の事故死を重く受け止め、グランプリ不参加を表明し、ニッサン同様ビックマシン開発活動を中止してしまう。
それを受けてJAFは、当てにしていたニッサン、トヨタの相次ぐ撤退により、日本グランプリ自体が運営不可能と判断し開催を中止してしまう。
唯一開催された JAFグランプリ もフォーミュラカーのレースであり、いくら 生沢 徹 人気だとはいえ、ビッグ・マシン激突の興奮に勝ることは到底出来なった。

      
 70' JAFグランプリ のお話しを少し・・・
 この70年JAFグランプリ、なぜか69年JAFグランプリや、71年日本グランプリ ほど後の時代で特集が組まれることが少ない。
全てのJAFおよび日本グランプリを含めても現役F1チャンピオンが来日し参加したのはこのレースだけだ。72年のジョン・サーティーズは、すでに引退同然の状態での来日だった。
当時の現役F1チャンピオン “ジャッキー・スチュアート”は66年の日本インディで初来日し、優勝。そして、1970年JAFグランプリでも優勝し、2戦2勝と日本でのレースは相性が良い。次いで1973年にも富士ツーリストトロフィーレースのために3度目の来日をしている。エントリー時ではスチュアートは正ドライバーとなっていたのだが、その前に引退を宣言したことにより、アドバイザーとしての来日となった。そして、ワークス・フォード・カプリはきわどい勝利ではあったが優勝している。もしもドライバーとして参加していたら無傷の3勝目となっていたことだろう。
 スチュアートは来日中に自身のアパレルブランドの発売記念を兼ねて東京 池袋の東武デパート催事場にてファンとの交流会を行っている。この会には私も高校生ながら参加させて頂いた。かなり前にこのレポートを書かせて頂いているのでお立ち寄り願えたら幸いだ。
フライング・スコット・ジュニア ジャッキー・スチュアート

 70年JAFグランプリではもう1つ忘れられない事件があった。そう Tetsu の「選手宣誓拒否事件」だ。
オールギャランティで招待される外人ドライバーたちと自費で参加する日本人ドライバーとの差別を訴えたのが選手宣誓拒否の理由であるが、JAFはこの行為の罰則としてTetsuに対し1年間の国内レース出場禁止というペナルティを課すことになる。
最終的にはTetsuは本意ではないとしてもJAFに侘びを入れ翌年の日本グランプリに出場している。



 そんな1970年、友人H君と毎年行っていた恒例イベントの“第3回東京レーシングカー・ショー”が晴海貿易センターで開催された。ビッグ・マシンの展示も多く、まだ60年代の余韻が色濃く残る今回のイベントである。これを見に行くとますます 日本グランプリ・ロス になってしまう。
 そんな中、一つの光明が芽生え始めた。プライベートチームにあるビッグ・マシンを一同に集めて富士スピードウェイを舞台にシリーズ戦を組もうという計画だ。これが1971年より開催される「富士グランチャンピオン・シリーズ」である。黒澤レーシングのマクラーレンやローラ、風戸 裕のポルシェ908などを中心に、日本にあるポルシェ906や910、そして、フェアレディ240Zなども仲間に入れて60年代後半の日本グランプリの雰囲気を再現しようという試みだ。後は、毎回海外より招待選手を招き、レースに色を添える指向。
ところで、ニッサンやトヨタで活躍したワークス・ドライバーたちは日本グランプリのないレース界でどう生きて行ったのだろうか。まずはツーリングカーレースに専念し、自社のマシンを成熟していくことだろうか。しかし、鮒子田 寛のようにエースの座を捨ててまでも海外にレースの場を求めるドライバーがいたのも確かだ。

     

 レース界と時を同じくしてプロレス界にも異変が起きていた。アントニオ猪木が新プロレス団体「新日本プロレス」(1971年)を旗揚げしたことも当時のニュースである。そして、日本プロレスが崩壊し、ジャイアント馬場の「全日本プロレス」(1972年)が誕生する。1970年代初頭は激動の時代だったのである。それにしても1969年に開催された日本プロレスの最大のイベント「ワールド大リーグ戦」は忘れられない。決勝戦の2試合「ジャイアント馬場VSボボ・ブラジル」&「アントニオ猪木VSクリス・マルコフ」はテレビに噛り付いて見ていた思い出がある。しかし、この試合、それぞれの勝者が決勝戦を行うのではなく、勝利した猪木が優勝し、引き分けた馬場は準優勝というなんとも腑に落ちない結果。納得できない。馬場の試合は、特にビッグ・ネーム相手の時は、勝つことが少なかったと思う。特に、ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリック、ブルーノ・サンマルチノ、ザ・デストロイヤー、そして、ジン・キニスキーなどのレスラーには引き分け、場外両者カウントアウト、無効試合などになるケースが多かった。だからこの組み合わせが発表された時にはある程度猪木が勝つのではと予想していたのだが・・・。まあ、プロレスはそんなところがまた面白い。

     

 そして、相変わらず“ストーンズ”に夢中だった私だが、世界の音楽界にも革命が起きていた。1969年のウッドストック後に起きたフラワームーヴメントから発祥した多彩なロックが、前面にビュジアル志向を誇張した“グラム・ロック”へと変貌し、ヒットチャートを賑わし始めたのだ。
その筆頭とも言うべきミュージシャンは、“デビッド・ボウイ”と“マーク・ボラン&T.レックス”、そして、“ロキシー・ミュージック”だと断言してもいいだろう。(私の偏見をお許しを!)
デビッド・ボウイについては、アルバム「アラジン・セイン」でのジャケットにまず驚き、音楽の新鮮さにカルチャー・ショックを受けた。そして、T.レックスの「メタル・グルー」と「20センチュリー・ボーイ」のサウンドに酔いしれた。ロキシーについてはもう少し後に知ることになるのだが、今は亡き友人T君が夢中だったグループで、とにかくそのメロディの不整脈(!?)な違和感がたまらない魅力だった。
 高校時代のお気に入りの洋楽ミュージシャンは、初期の シカゴ のブラス・ロック。泣きのギター サンタナ 。グラム・ロックの T.レックス。ジギー・スターダストの デビッド・ボウイ 。そして、ストーンズ だ。そして、いよいよストーンズの初来日が迫って来た!整理券が売り出される日は、高校を休んで行こう!!

    

 スロットカーの進化も忘れることは出来ない。全日本クラスのレースはすでにプラボディ(田宮模型のポルシェカレラ6のボディは最後まで残っていたように記憶しているが・・・)は姿を消して、クリヤーボディが常識化し、各サーキットチーム独自のシャーシを合わせての頂上決戦の様相だ。それに引きかえ私は友人H君と相変わらずホームサーキットを拡大したコースでシリーズ戦を行っていた。そして、当時は水道橋の高校より都営地下鉄で帰宅途中、巣鴨駅で下車し、駅前にある 巣鴨サーキット に立ち寄ることが日課となっていた。
実はこの時、夢であった自作クリヤーボディを作り、縁あって巣鴨サーキットにて販売して頂いていたのだ。オーナーM氏に初めて私が作ったクリヤーボディを見せに行った時のことは忘れられない。
「いいよ。置いてあげるから、定価は200円でどう?」とM氏。しかし、今で言うA4版ぐらいの塩ビ板が当時100円もしていて、2台分抜くことが出来るのだが、当時の技術では成功率は50%であったため、「なんとか250円で販売させてください」と泣きを入れてなんとか250円で販売させて頂くこととなった。仕入れ値は50%で当方の儲け分は125円ということになる。これが人生初めての卸商売であった。最初に店頭に並べさせて頂いたクリヤーボディは、フェラーリ312PB だった。詳しくはかなり以前にレポートを書かせて頂いているのでお立ち寄り願いたい。
モデルカー・レーシング入門記 3

 高校時代の1970年から72年は、今考えるとレースにしろ、スロットカーにしろ、音楽にしろ、プロレスにしろ、とにかくニューウェーブが台頭してきた時だった。しかし、男子校のような我がクラスは頂けない・・・。共学がいい・・・。そうそう文化祭があった!
 文化祭期間には自由にブース内で色々な個人展示をすることが出来た。委員会にエントリーし許可をもらえれば自分が描いた絵画の個展を開きたければその期間だけ割り与えられたブース内で展示することが出来た。クラスの友人T3君は何だか訳のわからない「チェイス」とかいう名前のブースを作り、今はもう展示内容は覚えていないが何かの展示を行っていた。ただ、名曲「Get it on」(チェイス)をバンバンプレーヤーで流しているので曲だけは印象にある。
ところで、文化祭のお楽しみは“後夜祭”である。各学科区別なく、フォーク・ダンスの時間がある。前から「カワユイ〜」と思っていた室内工芸科の女の子も参加しているようなので参加して見たのだが、「マイム、マイム」の曲に合わせて、あと一歩という距離まで迫りながら時間切れ終了となってしまった。
 また、高校3年の文化祭では、恥ずかしい今も忘れることが出来ないハプニングが起こる。急遽友人T2君と講堂でフォーク・ディオを組んで演奏し歌うことになり、なんと練習なしのぶっつけ本番での舞台となってしまった。曲は、フォークの名曲P.P.Mの「パフ」と吉田拓郎の「ゆうべの夢」。あの名曲「祭りのあと」の歌詞を変えただけの知る人ぞ知る名曲(!?)だ。この曲の歌詞は10数番まであり、長い長い曲である。私は、T2君のバックでサイドギター的に弾くだけと楽観していたのだが・・・。
しかし、そう甘くはなかった。舞台に立っていざ曲が始まるとT君は予定にはないカポをネックに取り付けているではないか!「えっ!」と心の中で叫んだ!もう遅い・・・。変わったコードを理解して合わせて弾けるほどの技量は持ち合わせていない。長い曲なので、飽きてしまった観客から「あいつ弾いてないよ」とか「帰れ!」とかの罵声が聞こえてくる。ただただ、コードを弾く真似をして長い長い曲が終わるのを待った最悪の文化祭だった。


TOP : The School Festival at my school in 1972.
(C) Photograph by H.Makino.

“燃える闘魂”と“木枯らし紋次郎”

 いつの間にか私はクラスの「四天王」の一人と言われるようになっていた。なぜだろうか、中学では偏差値のために行きたい高校に行けなかったのにこの高校では成績が高校3年の1学期まで第4位をキープし続けたのだ。しかし、高校3年2学期からはT3君と共に成績が下がり始め、卒業時には中段に順位を下げてしまう。ちなみにT3君はやはり四天王の1人で2位を続けていた実力者だった。理由は簡単だ。室内工芸科のあの子にT3君も夢中だったという理由で意気投合し、授業が終わると必ず水道橋にある「サニー」というサテン(喫茶店のことを サテン と呼んでいた)でお茶して夜まで話し込んでいたから、自ずと学力は下がるわけだ。そうだ!タバコを教わったのもT3君だった。
 男臭すぎる我がクラスから逃れる(!?)ために、私は、美術部に入部する決意を固めた。ここなら男女共学の雰囲気を味合うことが出来ると思い、駆け込み寺に逃げ込むような気持ちで決断した。良かった、良かった!メンバーで機械科の人間は私ともう1人の2人だし、クラブのリーダーはデザイン科の女性だし、言うことなし・・・。ビーナスやシーザーの彫刻をデッサンしたり、モザイク作品を作ったりと、やっとのことで掴んだ至福の時を過ごすことが出来た・・・と思ったらもう1人の機械科の男はちょっと変わった人間。プロレスのリングアナウンサーの物真似が得意で乱暴もの。「本日のメ〜ンエベント〜、○○ヘビー級選手権試合ィ〜、赤コーナー・・・」と叫びながら私をヘッドロックしながら反則パンチを打ち込んだりと危険な人物であった。
まあ、彼を除けば平和なクラブであるので、用心しながら油絵を描いたりしながら3年間楽しむことが出来た。下の画像は、1970年に真鶴海岸に合宿(!?)に行った時のものである。男女共学の雰囲気が漂う良い写真だと思うが・・・。真ん中あたりのメガネ青年(!?)が小生だ。
ところで、美術部の後輩の女の子でカワイイ子が1人いる。ちょっと気になってはいた。しかし、特に行動を起こすことはなかったのだが、私が卒業の時、その子に「制服のボタンください」と言われた時はちょっと焦った。


TOP : My art club had a camp at Manazuru-Coast in 1970.
(C) Photograph by H.Makino.

 高校のビッグ・イベントと言えば、修学旅行だ。行き先は山陽〜四国をまわる旅で「姫路」で姫路城を見学、岡山からフェリーで四国 高松。そして、栗林公園へと続く旅。下の写真は、栗林公園で、私らのグループメンバーがあるポーズをしているところだ。
みんな、口に長い楊枝を加えている。そして、「あっしには関わりえないことでござんす・・・」と言っているような・・・。

 TV時代劇「木枯らし紋次郎」は、当時今までにない時代劇として人気があり、従来のチャンバラ活劇とは違い主役の中村敦夫演じる紋次郎がとにかく走って走って活躍する。長い楊枝をくわえながら「あっしには関わりのないことでござんす」というセリフがその年流行語になったくらいだ。主題歌には上条恒彦が歌う「だれかが風の中で」を使うなど斬新さが目立つ思い出深い時代劇だった。
 

TOP: We had a school trip at SIKOKU in 1972.
(C) Photograph by H.Makino.
ニュー"McLaren Toyota"と"McLaren M8C"の関係は?!

 1970年6月号AUTO SPORT誌の中にある特ダネ・コラム「ワールド・コンフィデンシャル」において、“ル・マン・テストディ”、“S.マックイーンのル・マンエントリーは望み薄”、そして“J.サーティーズが古巣のフェラーリへ”などと共に私の目を釘付けにしたのは、“マクラーレン・トヨタ英国で試走”という記事だ。

「昨年の日本CAN-AMで注目を集めたマクラーレン・トヨタのニューモデルが、現在イギリスでテスト走行を重ねている。メーカーはマクラーレン・トロージャンで、スポンサーやドライバーとの話し合いが成立しだい、いよいよ待望のCAN-AMエントリーに踏み切るのではないかとも言われている。」

これが事実であれば、7月の富士1000Kmにおけるデモ走行で姿を現した“ターボジャージド・トヨタ7”とは別に新しいマクラーレン・トヨタが存在していたということになる。マクラーレン・トヨタのニューモデルというと、1970年型のトロージャン製マクラーレンM8Cを使用したマシンと予想される。
また、トヨタ自工チーム自体の車でない可能性もある。当時トヨタエンジンを貸し出すことは不可能ではなかった。1969年JAFグランプリにエントリーしていた“タキ・スペシャル”は、ブラバムF2(ブラバムBT23Cのようだ)のシャーシに、1年落ちの3リッタートヨタ7のエンジンをタキ・レーシングにレンタルした実績がある(シャーシの到着が遅れグランプリには不参加)。
さらに、1970年、ドン・ニコルズのチーム(AVSシャドウ・チーム)に69年型5リッターエンジンを売却したという話もあった。
しかし、その記事以降 ニューマクラーレン・トヨタ の話は一切報道されていない。もしもの話であるが、69年型の マクラーレン・トヨタ の車体が当時の黒澤レーシングに売却され、その後酒井レーシングのミノルタ・マクラーレンに至る事実から推測すると、大胆な推理だが、同年6月7日に富士で開催された「富士300マイルレース」に出場した黒澤レーシングの“マクラーレンM8C”は、実はトヨタがすでに用済みとなったテスト用の“マクラーレンM8C”を M12 同様、黒澤レーシングに売却したのではないだろうか?

             噂の“マクラーレンM8C”
 マニアックなレーシングカーを数多く製作し、私たちをいつも喜ばせてくれる“野上 稔”氏の作品。
今回は、1970年に開催された「富士300マイルレース」において、優勝した ニッサンR382 の影に隠れて目立たなかった 黒澤レーシング所有の"McLaren M8C"を再現。1/18スケールの田宮模型製 McLaren M8A を改造しての製作だ。いつも思うのだが、資料の少ない車種をよく細部まで仕上げることが出来ると感心するばかりである。


TOP : 1970 "McLaren M8C". Driven by Isamu Kasuya.
He did not a finish at Fuji in 1970 Fuji 300 miles race.
1/18scale Tamiya mokei "McLaren M8A" modifyed.
(C) Built and photograph by Minoru Nogami.

“不死鳥 風戸 裕”がポルシェ908スパイダーで参戦!!

 ヤングジェネレーションの筆頭として頭角を現していた 風戸 裕 が永松の三菱移籍後の タキ・レーシング からレンタルした“ポルシェ908スパイダー”でエントリーし、果敢にR382やM8Cに挑んだ。この908を1/43スケールで見事再現させた“山田雅之”氏は、「くるま村の少年たち」の創設以来の協力者であり、過去には、1/12スケールの「1967 LOLA T70 MKIII ル・マン テストディ」モデルの製作、「シャパラル・ツァー」「モントレー・ヒストリックカーレース」レポートなど貴重な体験レポートを紹介させて頂いた。特に“風戸 裕”には特別な思いがあるとのことだ。

TOP : 70' Fuji 300 mails race, "Hiroshi Kazato"and his Porsche 908 spaider at Fuji in 1970.
(C) Built and photograph by Masayuki Yamada.
フェラーリ512Sがやって来た!

 1970年のトピックスとして忘れることが出来ないことがある。9月6日に富士スピードウェイで開催された「富士インター200マイルレース」において、ポルシェ917Kのライバルである “フェラーリ512S” が来襲し、勝利したことである。フェラーリの純レーシングカーとしては初めての日本登場である。このレース、G.モレッティは初めての富士にも関わらずバンク付きフルコースを1分48秒台で走行していたのは見事だ。対抗馬として躍進著しい 風戸 裕 が ポルシェ908II で出場するも序盤でリタイヤし、モレッティの独走を許す結果となった。
この 512S もマニアック・マイスター“野上 稔”氏が1/24スケール ユニオン/エレール製 フェラーリ512S を大改造し製作されているのでご紹介したい。また、そのレースにエントリーし、序盤底力をみせた “男は黙って”の 酒井 正 が駆る “ローラT160”も製作されているのでご覧あれ!




TOP : 70' FERRARI 512 in 1970 Fuji Inter 200 Miles race.
1/24scael Union Ferrari 512S modifyed.
(C) Built and photograph by Minoru Nogami.


TOP : Tadashi Sakai and his Lola T160 at Fuji in 1970 Inter 200 miles race.
1/18 scale Tamiya mokei LolaT160 modifyed.

(C) Built and photograph by Minoru Nogami.

本格参戦開始!!対抗馬 “風戸 裕“ 登場!!

 本命 “フェラーリ512S” に唯一対抗できるマシン “ポルシェ908II” を引っさげて登場した「風戸 裕」。
このポルシェも山田氏の思い入れのあるマシンであり、1/43スケールで再現されている。

TOP : 70' Fuji Inter 200 mails race, "Hiroshi Kazato"and his Porsche 908 II at Fuji in 1970.
(C) Built and photograph by Masayuki Yamada.

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