1960年代はまさに夢が具体化し開花した年代だ!!

 1960年代をネットで調べて見ると、下記のような事柄が検索された。

1960年:カラーテレビ登場。ジャイアント馬場とアントニオ猪木デビュー。ダッコちゃん。ツイスト。
1961年:テープレコーダー。アンネ・ナプキン。NHK連続テレビ小説が放送開始。プラレール。プラモデル。
1962年:わかっちゃいるけどやめられない(植木等)あたり前田のクラッカー(藤田まこと)。首都高速道路開通。ツイスト。
1963年:ケネディ大統領暗殺。鉄腕アトムが放送開始。坂本九「上を向いて歩こう」日米で大ヒット。
1964年:東京オリンピックが開催。
1965年:11PMが放送開始。億ション登場。初カラーアニメ[ジャングル大帝レオ]公開。
1966年:ビートルズ来日。ウルトラマンシリーズが放送開始。グループ・サウンズ。ミリタリールック流行。
笑点が放送開始。
1967年:フーテン、ヒッピー、ミニスカートブーム。リカちゃん人形登場。ボーリングブーム。ツイッギー来日。
1968年:オリコンランキングが開始。週刊少年ジャンプが創刊。スカートめくり流行。
1969年:アポロ11号が人類初の月着陸。テレビアニメのサザエさんが放送開始。8時だョ!全員集合が放送開始。


「1965年から50年」本編にも書かせて頂いたように、モータースポーツやモデルカーレーシング関係、そして、エレキブームなどは書かれていない。ダッコちゃんやツイストブームと同じくらいにそれらは当時流行っていたように思っていたのだが・・・。
しかし、「スカートめくり」なんかどうして入るの?!そうそう、「ウルトラマン」があっても記念すべき「ウルトラQ」が書かれていないのも不思議だ。
 余談だが、「スカートめくり」より流行ったことがあった。私が通っていた常盤台の小学校では、授業で先生から質問されて席から立ち上がった学友の椅子の上に「鋲(びょう)」や「鉛筆」を立てて置き、学友が座って「痛ぇ〜」というリアクションを楽しむ(!?)ことが流行っていたが・・・。悪質だなぁ〜。それから・・・書いていいのかなぁ〜・・・男の子同士の流行とでもいうか、プロレスで言う「反則急所パンチ」だ。これは日常茶飯事の出来事だったと記憶する。それはそれは痛い!

 そしてもう1つ。これもどこにも書いてないのだが、子供から大人まで(ただし、男だけであるが・・・)毎日のように町で見かけた光景が「立ちション」だ。いつからかそれは「いけないこと」というレッテルが貼られるのだが、確かに当時「立ちション」は当たり前の行為だったのだ。私たち子供たちは、まだ舗装されていない道の脇にあった「溝(ドブ)」や「電信柱」、そして、当時どこにでもあった草っ原によくしたものだ。そして、2〜3人横に並んで遠くへ飛ばす競争をしたことも良い思い出だ。その開放感は格別のものだった。しかしながら、学校では立ちションをした覚えはない。

そして、思い出すのも嫌だが、道で友だちとボール遊び(庭球のキャッチボールのようなもの)をしていると、必ずと言っていいほど両脇のドブにボールが落ちてしまう。当時は下水道完備されていないので、それこそ「立ちション」や各家の下水などが入り混じった汚い水が流れている。その中からボールを拾うのだから嫌になってしまう。そして、汚い水に濡れているボールを2つ指で挟んで取り出し道路の砂や土で表面の汚れを落とし、表面がザラザラなボールのまま遊びを続ける。ボールはいつのまにか真っ黒。しかし、お金もないのでその後もそのボールを使い続けるのだ。

 「洟垂れ小僧」とはよく言ったものだ。私が小学校低学年だった頃には、クラスで何人かの男の子は洟垂れであった。
どうして、鼻水が口元まで垂れ下がるのか当時は分からず、そういうもんだと思っていたのだが、どうも病気の1つらしい。青っぱなを垂らしてまたズルズルと音をさせながら吸い上げる。なんとも汚い感じがしたものだった。しかし、本人はちょっと息苦しいようだったが・・・。

 子供たちの服装は意外とおしゃれだ!?

 下の画像は、デパートの屋上で雑誌撮影のためのワン・ショットと今は無き池袋 丸物デパートの屋上にあった乗り物に上機嫌で乗る小生。
 なぜか親父の仕事の関係で ちびっ子モデル をさせてもらっていた時期があった。昔のデパートの屋上では当たり前の光景。カブトムシも売っていたし、まるで縁日と遊園地が一緒になったような場所であった。

 
TOP : It's amusement park on the roof of the department store in 1962.
(C) Photograph by H.Makino.
 
 下の画像は、1961年当時の区立小学校での入学式クラス集合写真と小生である。この写真を見るまで忘れていたのだが、一応男女とも制服と制帽(男の子のみ)があったようだ。 しかしながら、「草履袋(ぞうりぶくろ)」と「長靴下」が懐かしい!! うむ?!当時は下駄箱はなかったのだろうか?!記憶がない。
 不思議なもので、この時代しか会っていないのに、写真を見ると7割ぐらい名前を思い出す。何故だろう〜!?
担任の“あべ先生”・・・。可愛かった“かすみちゃん”! 1962年の僕の誕生日会に来てくれてありがとう・・・。そして、天地房子(知ってますか?)が叔母に当たるという天地君もいる。
 我がクラスは、1年4組で色は「みどり」だった。色でクラス分けをしているのは全国的だったのだろうか?
それにしても昔の木造校舎の教室はレトロだ! 木製の2人用机がなんとも懐かしい!!

 

 
TOP : Elementary school entrance ceremony and general uniforms of elementary school students.
(C) Photograph by H.Makino.
 
 お出かけの時の子供たちは意外とオシャレだ・・・。左下の写真は、初詣で明治神宮へ参拝へ行くところ。1962年頃当時既製服は今のように多くは売られていなかったので、生地だけ生地屋から購入し、近所のおばさんが営んでいる「裁縫屋」さんに注文するか自前で洋裁して作ったものがほとんどだったのではないかと思う。当時の洋裁関係雑誌の付録などには型紙が多く描かれていたことでもその当時の様子が分かる。そして、流行だろうか、全体的にチェック柄が多いのはどうしてだろうか。
 
 それから男の子はほとんどが1年中半ズボンで冬はストッキングのような長靴下を履いているのも当時の特徴だ。この長靴下だが、太ももの付け根辺りがゴムになっていてパンスト構造とは違う。よって、すぐにたるんで見た目が横しわだらけになってしまう。個人的にはあまり好きではなかった。

しかしながら右下写真の“洋子”ちゃん、元気だろうか?!当時は本当に仲が良かった!!

    
TOP : Standard attire of children of the 1960s.
(C) Photograph by H.Makino.
 
 さて、学年が進み、小学校5〜6年生ぐらいになると下記のような服装をする子供たちが増えてくる。右の写真の女の子たちの服装は標準的な普段着である。そして、今のようにズボンを履く女の子を見ることは当時なかったと記憶する。だから「スカートめくり」が流行るわけだ!
しかしながら、当時の子供たちは良く笑う!!本当にクラスメイトと過ごす1日が楽しいのだろう!

 
TOP : Children of everyday wear of 1965 is this is it !!
(C) Photograph by H.Makino.

 1950年代後半から1960年代前半の頃の子供服を特集した写真(「主婦と生活」、そして、「婦人倶楽部」という雑誌だという)があるのでご紹介しよう。縁ありモデルとなった小生が着ているのは全て一品もの、今で言うオートクチュールだったようで、後で聞いたのだが、うちの母親などは、良い服があるとデパートなどで似ている既製服を探してみたり、生地だけ同じものないしは同じようなものを生地屋から見つけてきて町の洋装店に注文していたようだ。
1958年当時の婦人雑誌「主婦と生活」の中で特集されていた
「子供の洋服」に見る当時の流行


 H君のお話し

 私が通っていた小学校は、東京 板橋区の常盤台にある。ここは、東京の中でも住宅地として有名であった。しかし、まだまだ戦後の臭いが残る1960年代。同じ板橋でも私が住んでいた板橋区板橋は、まだ貧困の差が結構目立つ地域だった。それに比べて常盤台には一軒家が多く、広い庭などを持つ家庭が数多く並んでいる。下の写真の子供たちは常盤台の小学校に通っていた比較的裕福な家庭で育った子供たちだと想像する。

 私が住んでいたのは、1960年に抽選で当たった公団住宅である。かなりの倍率だったと聞くほど当時公団住宅は人気があった。共働きだった私の両親のような親を持つ子供たちはまだまだ少なく、今のように女性が働くことが少なかった時代である。だからこそ公団住宅に住むことは家族として理想だった訳だ。

 私は、小学校1年から3年までは、近くの小学校へ通っていたのだが、諸般の事情で電車で通う越境入学となり、1964年から常盤台の小学校に通うようになった。

 最初の小学校のクラスメイトで印象に残っている友達が1人いる。その子はH君と言う。H君宅に行くには、私の公団住宅から目の前にある17号線(中仙道)を渡り、びっこ階段(段の奥行きが長く一足では降りて行けずこの名前が自然についた)を下り少し歩く。すると戦後に建てられたコンクリートの家並みの中に1軒だけ戦前からある木造のいかにも壊れそうな家がある。そこにH君は住んでいた。
 H君の家族は、いつも家にいるのだが働いていない父親(病気なのかよくわからない)と現実的に家族の面倒を見て動き回っている母親と妹がいたと記憶している。家の外には共同の土地なのか比較的広い場所があり、真ん中に井戸が1つある。当時は下水道設備がまだ完全でなく、このように井戸を日常の水として使用している家庭がまだ多かった。
余談だが、この場所には、小学校4年ぐらいまで(1964年頃)は毎日のように“紙芝居屋”が来ていて、私たちを楽しませてくれていた。
 印象に残っているのは、親父さんを除いたH君と母親、そして、妹の3人が頻繁に私の家にテレビを見に来ていたことだ。このようなことは当時としては珍しいことではなく、電話なども呼び出しや長屋住宅などの共同電話なども当たり前の時代だった。
貧困さを卑屈に考えないH君家族は今考えれば素晴らしい家族だと思う。お袋さんは毎月の小学校費用をどんな仕事をしていたかは分からないが遅れることなく払っていたと聞く。H君の家に行くたびにお袋さんが外にある井戸で洗濯をしている姿が忘れられない。後年、就職したH君と会うことが出来たが、とてもりっぱな大人になっていた。その時は小学校の事務の仕事をしていると聞いた。さすがあのお袋さんあってのH君だ。貧困でも子供たちを立派に育て上げたお袋さんの強さと愛情を強く感じることが出来た。

 当時の子供たちは遊園地が大好きだ!!

 まだ、ディズニーランドのような大型Amusement parkが存在しない1960年代。子供たちに人気があったのはやはり「動物園(上野動物園や多摩動物園など)」や「遊園地(豊島園、向ヶ丘遊園、谷津遊園、後楽園など)」ではないだろうか。
記憶に残る遊園地は、「豊島園」と「向ヶ丘遊園」だ。特に両方にあったアトラクション“ウォーターシュート”は忘れられない。船頭さん(!?)が四角いボートの先頭に立っていて、それこそ冬のスキージャンプ競技でスロープの頂上からスタートするかのように下の水面めがけて落ちていくのだから凄い!!水面に着水する勢いは物凄かったと記憶している。また、その瞬間、船頭さんは真上に飛び上がり、そして、船首に舞い降りる。まさに、アクロバットなパフォーマンスを見せてくれる。それはそれはスリル満点のアトラクションだった。しかしながら現在の常識からすれば、客も船頭さんも危険だというレッテルが貼られるのは必死だ。
 下の画像は、谷津遊園地と向ヶ丘遊園地で遊ぶ子供たち。谷津遊園地は、幼稚園時代の課外授業で行った時のものかもしれないが、よく覚えていない。しかし、向ヶ丘遊園地のゴーカートのスタイルはまさに60年代だ!!
電車のようなものに乗っているが、これはもしかして「お猿の電車」のような気もするが・・・。今だったら動物虐待ですぐさま禁止になるだろう。
  
TOP : Yatsu amusement park in 1960.
(C) Photograph by H.Makino.

  
TOP : Mukogaoka amusement park in 1961.
(C) Photograph by H.Makino.
 豊島園は、先に紹介した「ウォーターシュート」はもちろんだが、右下の写真の「空中飛行艇」とでも言うのだろうか、名前は忘れてしまったが、カプセル形の飛行艇に写真のように乗り込み、ぐるぐる空中で回るだけなのだが、当時の子供たちからしたらそれはもう飛行機に乗ったのも同じで、快感を味合うことが出来たのだ。
  
TOP : Toshimaen amusement park in 1959.
(C) Photograph by H.Makino.

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