「1965年から50年」スピンオフ企画 特別編
“50-70年代の少年たちの 暮らし と 遊び”



 1950年代半ばに幼年期を過ごし、70年代に青年期を迎えた還暦世代。
世の中は、いざなぎ景気に沸き、何もかもがカルチャーショックの時代。
当時の写真を参考に、その時代の暮らしや 遊び などを検証してみよう。

 “ゴジラ”と共に誕生!?

 昭和29年末に話題となった怪獣映画「ゴジラ」と共に生まれた私は、ギリギリだが昭和20年代の人間と見られてしまう。もちろん事実なのだが、30年代生まれと言われるのとは印象が違う。いわゆる“団魂の世代”と同世代になるわけで、ちょっと違うと思ってしまうわけで・・・。別にその世代が嫌いという訳ではないが、いわゆる激しい生存競争を生き抜いた世代ではないということだ。確かに、小学校のクラスの人数は50人以上、各学年も5クラスあったのは事実だが、“団魂の次世代”という言い方の方が納得できる。

 世の中、まだまだ戦後の臭いが色濃く残りながらも、景気も上向きとなり始めていた。そんな生活環境も豊かになり始めた1954年に生まれ幼年期を過ごしたわけだが、共働きの両親(というか、親父は画家で不定期収入。教員の母親が稼ぎ頭であった)のお陰で下の写真のように不自由なくその時期を過ごすことが出来たと思う。しかし、生まれた家やその次に住んでいた家はすべて借家であり、普通の家で大家さんが1階に住んでいて2階を借りていたということもあった。
だからこそ3回目の引っ越しで移り住んだ板橋の公団住宅は、初めて得た住宅という感じがしたものである。

 当時の日本では、父親は仕事で朝から外に出て、女性は主婦として家を守るという昔ながらの常識がまだまだ残る時代。女性選挙権もやっと戦後に認められたほどで、私の母親のように戦前の師範学校を卒業し、そして、教師となること自体珍しいことであった。
逆にうちの親父は幼い時から体が弱く、喘息持ちで思うように学歴を重ねることが出来ず、好きだった絵画を描くことを仕事にした人間であった。そのため、我が家は普通の家庭と逆で絵の仕事で家にいることが多かった。そして、夕飯などは親父が作ることも多々あった記憶する。
 
  
1955年の“こどもの日”!!

 下の写真に写っている「5月人形」や「鯉のぼり」は、誰もが手に入れられるものでも見れるものでもないことをだいぶ後になって知ったのだが、当の私も写真があったから「そうだったのか!」と言えるわけで、記憶ではまったく覚えていない。
私の記憶として残る最古の記憶は、幼稚園の終わり頃の断片的な記憶である。鮮明に残っているのは小学校4年生頃からで、それ以前のものは、どうも親の撮影した写真を記憶と勘違いしていたと思われる。

 
TOP : Japan's national holiday "Children's Day".
Iconic figurine of "Children's Day" and, big carp that trail in the sky.
(C) Photographs by H.Makino.

    初めて手にしたカメラ 「フジペットEE」

  これらの写真があるのは、画家で家にいることが多かった親父がカメラ好きであったというお陰だ。現在のように誰でも簡単にスマホで動画撮影やちょっと前であれば、ビデオ撮影などが出来る環境が当時あるわけではなく、まして当時は、カメラ操作は難しく、絞りやピントなどの操作はやっかいで誰でも撮れるものではなかった。そして、高価なものであった。当時は「二眼レフカメラ」が主流で、直方体を縦にしてそこにレンズが縦に2つ並び、上の面に被写体を見る窓があるカメラだったと記憶している。
 カメラが一般的になってきたのは、「一眼レフカメラ」や「二眼式カメラ」などが普及された1960年代以降かと思う。
小学校3年頃に買ってもらった「フジペットEE」は思い出深い。ただし、自動フイルム巻取りではなかったので、つい次のフイルムを巻くのを忘れてシャッターを切ってしまい二重写しをしてしまったことが幾度もあった。
 それ以前の子供たちにとっての写真機と言えば月刊漫画雑誌の付録に付いていた「日光写真」しかなかった。

   幼児のおもちゃと言えば・・・

 クリスマスと誕生日が近い小生は、一緒にされてしまうことが多かった。そして、すぐに正月が来る。これは親の知恵というか小さい子供からしたらまだまだ「ずるい!」と思える年齢ではなく、ただただ、プレゼントやケーキを見るだけで喜んでいるわけで・・・。しかしながら一人っ子の私にしてはケーキが大きすぎる。それぞれ食べた後、残りをどうしたのか聞いておけばよかったと後悔しきり・・・。

 当時の幼年期の男の子用のおもちゃと言えばなんだろうか?木製の汽車やトラックなどで遊んでいるが、やはりブリキなどはまだ危ないという思いが親にあったのかもしれない。それと「キユーピーさん」の人形。セルロイド製のなんとも言えない感触が当時を思い出す。キユーピーマヨネーズのキユーピーはまさにこの人形をモデルにしている。
もしも動物が好きな親であったなら、犬や猫を飼っていて子供の遊び相手になっていたかもしれない。

 犬といえば、1960年代中盤までは街中に「野良犬」がゾロゾロいた。「野良猫」は昔も今も多いが、野良犬は、「狂犬病」に罹っている犬もいたわけで、結構子供たちにとっては厄介なことであった。よく町で見られたのが、保健所の人たちだろうか、大きな虫取り網のようなもので野良犬を生け捕りしているところだ。その後はどうするのか分からなかったが、殺傷したのではと想像する。

  
(C) Photographs by H.Makino.

 1957年当時、自慢!?の“マイ三輪車”と並ぶ私である。当時の三輪車はやはりレトロな感じがする。
西武池袋線の「東長崎」に最初の家があり、そこで生まれるわけなのだが、病院での出産ではないようで、昔ながらの“お産婆さん”に来てもらい出産したようだ。証拠に金たらいの産湯を浴びる写真が残っていた。

 

 この場所は、家の目の前にあったと記憶する神社だ。良く縁日などで遊んだところだ。神社のお兄さんたちに遊んでもらっていたと聞く。そして、毎年何回か開かれた「縁日」で遊ぶ近所の人々。金魚すくい は当時の目玉アトラクション(!?)である。また、「わた飴」や「たこ焼き」などもテントがあることから売っていたのではと想像する。(この時期の自分の記憶がない)



  
TOP : Fair that was held at the shrine at HigashiNagasaki, Toshima-ku in 1957.
(C) Photographs by H.Makino.

 子供は乗り物が大好きだ!

 1957年5月28日は、日本の鉄道界において画期的な年となる。以前から計画されていた「小田急ロマンスカー」が開通した記念すべき日だ。
新宿〜箱根を結ぶ夢の列車が遂にその姿を見せたのだった。当時の国鉄の協力を得て製作された「3000型」車両は、1964年に開通する「夢の超特急 ひかり号」が出来るまでは、そのスタイリッシュなスタイルと共に大人気を博していた。踏み切りを通過する際に鳴らす汽笛はメロディアスで記憶に残るものだった。
 そして、親父の仕事の関係で、その初試走するロマンスカーになんと同乗出来ることになったのだ。下の写真は、憧れのロマンスカーの前に立つ私である。
 これは、初試走の記念として雑誌社が企画したことのようだったが、演出として当時の映画女優さんも同乗し、ダッコしてもらうっている私だが、その感触どころかまったく覚えていないのがなんとも残念だ。

 
 
TOP : And boarding in the first trial run of Romancecar. in 1957.
Boy that is hug a movie actress.

(C) Photographs by H.Makino.

 昔のバスも好きだった!!

 1960年代初期のバスは、まだ車掌のお姉さんが乗っていて、乗車した客に切符を穴ポッチハサミを入れて売っていたのだ。60年代半ば以降に初めて都内にもワンマンバスが登場したと記憶している。
 1960年に板橋に引っ越して来た時、幼稚園に通うため、巣鴨からバスを使っていたと記憶する。その時のバスは、トラックと似ているボンネットバスがまだ使用されていたことがとても懐かしい。
その他、記憶に残るバスとしては、トロリーバスが忘れられない。バスと言っても内燃機関を動力とするトラック系とは違い、どちらかというと電車にゴムタイヤをつけたものと言った方が正しい。屋根に付いた2本のパンタグラフが路上上に張り巡らせた電線を都電と同じように集電して走る仕組みだ。確か、池袋から出ていたトロリーバスには何度となく乗った記憶がある。

 下の車内写真は1964〜65年頃のものだと思うが、普通のバスなのかトロリーバスなのかは覚えていない。車掌さんが見当たらないが、運転手さんの左横には出口がないように見えることから、左横中央あたりの出入り口に車掌さんがいるのではと想像する。
 さて、このバスはどんな形をしていたのだろうか?!ネット上で調べて見ると、運転席の2つに別れた窓の形や、横後部の三角窓、そして、座席後ろの四角い窓とその上にある楕円的な小窓などの形から推測するとどうも一番下の写真の都バスではないかと思うのだがどうだろうか?!ただし、前からの写真は見つからなかったが・・・。

 それにしても昼間とはいえ車内は空いている。そして、当時当たりまえだった電車と同じ客席の並び。今のように2人掛け座席などはなかった。ただし、学校での遠足などに使われた観光バスは今と同じ座席配置だ。
 遠足で思い出したが、とにかく私は最前列にいつも座るようにしてた。すぐに車酔いするからである。当時の酔い止め薬「トラベルミン」を飲んでなるべく左右に揺れの少ない前の席に座るようにし、絶対紙袋を離さないのが当時のお約束だった。そして何故か、元気な子供はいつも最後尾と決まっていた。

 
TOP : Old bus of around 1964.
(C) Photographs by H.Makino.



      そう言えばこの靴・・・・。

 この靴を見て思い出した。当時、夏にこの靴を頻繁に履いていた。その頃からか結構靴のサイズは大きい方で25cmぐらいはあったと思う。
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