いよいよ鮒子田選手がトヨタ7でニッサン勢と共にデモランする時間となった。スピードウェイ内ではまだトヨタ7が一緒に走ることを知らない。ニッサンのファンのための粋な計らいだと言う。
30分も前からトヨタ7のエンジンは慣らしを続けている。隣のピットでは、最近レストアなったニッサンR381とR382が同じくエンジンを慣らし続けている。ニッサンのドライバーは、#20 R381にオリジナルドライバーの北野 元選手。イエローで#21のR382にはオリジナルドライバーの黒沢元治選手ではなく、高橋国光選手が乗る。
私は、出走前の鮒子田選手にインタビューを試みてみた。
「ドライブを前に何か一言お願いします」と私。
「36年振りにニッサンR381、382とレースしてきましょう!!車の足回りを自分で直したので、楽しくなってきた。トヨタフェスティバルより楽しんでドライブ出来そうです」と鮒子田選手。
「北野選手の後ろを走る時は、石が飛んでくるかもしれないので、気をつけて走ってきてください」と私。
「気をつけま〜す!」と鮒子田選手。もちろん、1969年、NETスピードカップレース予選時に起きた“石跳ね事件”のことを言っているのである。当時、予選において、北野選手のR381改の後ろを走っていた鮒子田選手は、北野選手の跳ねた石を眉間に受け、負傷した事があった。今は鮒子田選手もニコニコ顔で答えて頂いた。
さあ、出陣である。シャッターが開いた。すでに、ニッサン勢はコースインしている。場内からトヨタ7の姿を見て歓声が上る。ニッサンR380II、R381、そして、R382がトヨタ7の到着をスピードダウンしながら待ち受けている。
4台が揃った!詳しく言えば、トヨタ7は実戦経験がないマシンであるが、それまでニッサン勢に押さえ込まれていたトヨタが、遂にニッサンと肩を並べることが出来たスーパーウェポンであることを思えば、このランデブー走行はなんとも考え深いシーンである。
 そして、ニスモフェスティバルにおける鮒子田 寛氏のデモンストレーションランが終わった頃、富士スピードウェイに雪が降り始めた。かなりの大粒である。
「ヘアピンでパワーかけたらお尻が(トヨタ7のリヤ)ぐらっと振れたぐらいだから、雪の中じゃ走りたくないね!」と鮒子田氏。
 右上の写真は、デモンストレーションランを終えた北野選手、鮒子田選手、そして、高橋選手の感激の握手シーンである。元ニッサンワークスの3羽カラスと言われた内の2人と、元チーム・トヨタのエースが、36年振りに富士でデモランとは言え、同じコースで走ったのだ。感激である。
 楽しくもあり、緊張した時間はあっという間に過ぎていった。
私ごとだが、鮒子田選手がピットを後にした後、私はダッシュでヘアピンへと向かった。ところが、新しい富士が初めてであった私は、ヘアピンへと行く道を甘くみていた。
ヘアピンへは、かなり急な下りを駆け下りて行かなくてはならず何回か尻餅をついてしまう有様。とにかく鮒子田選手の走行をカメラにおさめなくてはならない。
そして、なんとかヘアピンにたどり着いた時、その金網の高さに呆然としてしまった。「昔の富士スピードウェイの方が良かったぁ〜」そして、何枚か4台の走行を収めることが出来た。しかし、シャッタースピード調整が出来ない私のデジカメに嘆く事然り。
あっという間に、日本グランプリマシンの走行は終了。すぐに戻らなくては・・・と思いつつも、息も絶え絶えの私は、パンパンになった腿をさすりながら急な坂を上り始めたが力が入らない。まさに「マラソンした後みたいだ・・・」だった。

TOP : Hiroshi Fushida, Team Toyota's staffs and us.

ゲストルーム11号室にて

 緊張のデモンストレーションランが終わって各ドライバーはゲストルームでリラックスムードの中、ランチタイムとなる。
そして、36〜37年振りの走行を終えたビッグマシンたちはピット内に設けた場所に展示されていた。ところで話によるとあの幻のマシン“ニッサンR383”を2006年にレストアし走れるようにするとか・・・。楽しみである。

 さて、興奮のデモランを見終えたわれわれくるま村取材班は、鮒子田 寛氏のご好意でなんとドライバーやプレス関係だけが出入りできるゲストルームに入ることが出来たのだ。
そして、同席にはなんと元チーム・トヨタの大坪善男氏。大胆な発言をぽんぽん飛ばすなんとも頼もしい親分肌の大坪氏であった。それではこれからゲストルームでの鮒子田氏、大坪氏、そして飛び入りゲストの楽しいお話を再現してみたいと思う。

丸いテーブルには、左に鮒子田氏、中央に大坪氏、そして、鮒子田氏の左となりには2004年度インギングチームで鮒子田監督の下で活躍した横溝選手。大坪氏の左隣には、「ノスタルジックヒーロー」誌編集長の辻氏がいる。

鮒子田 寛氏(以下鮒子田):トヨタフェスティバルの時は、まだトヨタ7に乗ってもあんまり楽しい気はしなかったけど、今回は足回りのセッティングまでしたから結構楽しかったよ。かなり良くなったよ。次回もよろしくね!

くるま村:大坪さんも次回はトヨタ7に乗ってくださいよ。

鮒子田;坪ちゃんは、昔のトヨタの生き字引だからね!

大坪善男氏(以下大坪):おおぅ、今度はオレがセッティングするからよ!

鮒子田:もう変えちゃだめ・・・。あれ以上変えちゃダメだよ。スタビを硬く、ダンパー変えて・・・。

大坪:今のメカに分かるのがいないんだよ、ハハハッ!
ところで、横溝君は何乗ってんの?

横溝直輝選手(以下横溝):GTはスープラですけど・・・。

 話がちょっとずれたところで今日のために用意してきた鮒子田氏のアメリカ修行中時の写真を見せる。
70年ラグナセカでの鮒子田氏が日本人として初めて参加したときのマシンである“MAC'S IT SPECIAL”やFAイーグルなどの写真である。

横溝:これ鮒子田さん?ラグナセカを走ったんですか?

なんとも横溝選手の顔がビックリしていてなんとも面白い。

鮒子田:1970年に乗ったよ。トヨタ辞めてからね。

くるま村:話は違いますが、雪の前に走行が終了して良かったですね!

鮒子田:こんなんだと大スピンよ!ただでさえ1周目ヘアピンで横にぐらっと来たし・・・。

大坪:ヘアピンもそうだけど、裏の最終コーナーも危ないよ!

鮒子田:最終も難しい。難しい。こんなスピードでも危ないのに・・・・。2分10秒前後でこれじゃ考えちゃうよね・・・。

大坪:オレはね、グニャトーンが来るんじゃないかと思ったよ!

注)グニャトーンとは、当時のチームトヨタメンバーの考えた言葉で、車がコーナーで勝手にグニャと捻れて曲がって行ってしまうことを言う。すなわち、シャーシの剛性が弱いということを言いたいらしい。

鮒子田:あんなとこじゃこないよ。100Rと300Rで昨日練習の時にあって直したんだよ!昨日は怖かったよ!

大坪:あれなんだったんだろうな?!

鮒子田:あれはシャーシだよ。だけどレーススピードで走るわけじゃないんだから。

大坪:そういえば3リッターもグニャトーンひどかったよな!

鮒子田:3リッターは良かったよ。5リッターはひどかったけど・・・。

大坪:最初の頃の5リッターはまだ良かった。

くるま村:日本グランプリ前にあのMr.Eが5リッター7をほめたのが直さなかった原因なんですよね!

鮒子田:責任あるよね!

くるま村:そう言えば大坪さんは、1968年にチーム・トヨタの練習中にバンクでクラッシュしたことがありましたよね!

大坪:それそれ。あれはトヨタの模擬レースだった。バンクの馬の背に入ったところでマシンが横向いちゃって・・・。

鮒子田:あれはスピンだよ!(笑)

大坪:スピンって言うなよ!(笑)バンクの入り口でパキンってなっちゃってさ・・・。スピンじゃないよ!

鮒子田:まあそういうことにしておきましょう。(笑)

くるま村:1つお聞きしたのは、3リッター時代にフロントノーズが2種類ありましたよね!
1つが尖ったのと、もう1つは平たいのが・・・。

鮒子田:最初はベタのノーズだったんだけど、その次に尖ったのが出来てこの方が良いだろうということでグランプリには全車このノーズで出たんです。だけどやっぱり最初の方が良いのではということでその後は両方出していたね!私はベタの方が良かったと思うよ。

大坪:最初のはライト付けようと思ってさ、当時のグループ6みたいにしてさ。ル・マン行くんで、よく福沢にフランス語特訓してもらったりしたよな!

鮒子田:古き良き時代ですよ!

大坪:今度トヨタシニアドライバーズユニオンを作ろうと思うんだ。もちろん、トヨタ公認じゃなくちゃだめだからね。
ボランティアじゃしょうがない。

鮒子田:そのとおり。

大坪:メンバーは13名とスポットでトヨタ乗ったの入れて23名ぐらいかな?!チーム・トヨタは5名しかいないし・・・。(細谷四方洋、津々見友彦、鮒子田 寛、大坪善男、久木留博之+見崎清志?!)

くるむ村:是非実現できるように我々も微力ながら協力したいと思います。

ここで、大坪氏退場・・・。
 


横溝:鮒子田さんは何歳からレース始められたんですか?

鮒子田:二十歳からトヨタで走っていて、70年にトヨタ辞めてアメリカで2年間やって怪我して日本に戻り、GC(グランチャン)なんかを始めたわけ。

くるま村:鮒子田さんのドライバー時代の中で1970〜72年まで(GCチャンピオンを取るまで)というのはご自身としては一番充実していた時代だったんではないでしょうか?

鮒子田:あんまり感じない人ひとだし、たんたんとやってましたよ!

くるま村:鮒子田さんは落ち込むことがないんですね!

鮒子田:全然落ち込まないよ!

くるま村:そう言えば1970年のFAコンチネンタルの総合ポイントで鮒子田さんは20ポイントで18位にランクされていました。それもわずか5戦出場しただけでしたから、全14戦をフルに出場していたらベスト5は確実だったと思うんですけど、どう思われますか?

鮒子田:まあ3位ぐらいまではいけたかな・・・(笑)。クラッシュしたらいかんよな。360度ターンして土手の上に乗ってクラッシュしたからな・・・。落ちたら最悪だったよね。運が強いのよ。(笑)

横溝:怪我はなかったんですか?

鮒子田:平気よ!運がいいのね。

というところで、日本コンストラクターズユニオン会長の由良拓也氏が登場!

由良拓也氏(以下由良):どうも、こんにちは。

鮒子田:いやどうも。どうぞ、彼らは私設マネジャーとHP担当者だから・・・。

由良氏とは2002年の富士エコランでお会いしている。その時の復活版“紫電”にはえらく感激しました。
続いてくるま村として由良氏に質問をしてみることにした。

くるま村:当時の鮒子田さんのシェブロンなどのボディなどを復元されていたように記憶しているのですがどうだったんですか?

由良:もう鮒子田さんとは長いから、最初のシェブロンもそうだし、MCSボディもシェブロンベースで作りました。

鮒子田:そういえば、オレのシェブロンの型とってよく皆に売っていたじゃない?!だからマスター貸しているんだから少し安くしてくれってね!(笑)

くるま村:由良さんのデザイナーとしての最初の仕事は、1972年富士グランチャン時に酒井 正さんが乗られていたマクラーレンM12のリアカウルを当時のマクラーレンM8D風に改造されたのが最初なんでしょうか?

由良:いや、その前に軽自動車のエンジン使ったFJ360かFL500なんかでRQ(レーシングクォータリー)の仕事でカウルを作ってました。大きい車は酒井さんのが最初ですね。

くるま村:話は違いますが、由良さんはスロットレーシングもされると聞いたのですが?

由良:スロットカーやラジコンは良くやりましたよ。スロットカーは、最初のブームからやってました。ラジコンもタミヤが最初に出したポルシェからですね!

くるま村:ポルシェ934ですね!

由良:そうそう。あのころは自分でシャーシ作ったりしてよくやってました。

くるま村:今もスロットカーやっているんです。それも昔の雰囲気でCAN-AMなんかをやっているです。今度グランチャンをやろうなんていっているところなんです。

由良:そうですか。今でもマニアックなスロットサーキットがありますね!

鮒子田:紫電も作らなきゃだめよ!

そんな時ふと机の上にある写真を目にした由良氏は・・・。

由良:MAC'S IT SPECIALだ!

鮒子田:よく分かるね!スノーモービルエンジンが4基載っていたヤツ。

由良:こういうのが出てくるから当時のマシンは面白いんじゃないですか!でも、鮒子田さんが乗るマシンはキワモノばかりでしたね!

鮒子田:そうそう、キワモノばかりだったね!マキF1、シグマ・・・。

くるま村:そのかわり日本人として初めてという称号をもらってますよ!ちゃんとしたマシンに乗れば速かったのになぁ〜と思ってしまいます。

由良:MAC'S IT SPECIALは、レーシングカーとしての興味がありましたよ。だからすっと今でも名前が出てきてしまいますよ。

そして、由良氏は、1971年のTran-Amレースに鮒子田氏が参加した白いカマロの写真を見て。

由良:これで大事故したんでしたっけ?

鮒子田:おぉ、ブレーキのパットがなくなっちゃてブレーキきかずに一直線。2時間半閉じ込められました。
 

まだまだ楽しい話は続くのだが、そろそろ時間と言う事で・・・。
皆さん、当時の貴重なお話を直接伺うことが出来た事が何よりも我々にとって嬉しかったし、特にこの場を借りて鮒子田 寛氏にこのような場を我々に与えて頂いたことを重ね重ねお礼を申し上げたいと思う。


TOP : Takuya Yura (Leftside),Hiroshi Fushida,and Naoki Yokomizo(Rightside).
Backgrand : Welsh Kogi(Leftside),BonMakino, and Yoshiyuki Tamura(Rightside).


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(C) Photographs by Bon Makino.

(C) Photographs by Kazuhiro Kogi.

(C) Photographs by Yoshiyuki Tamura.

Special thanks Hiroshi Fushida.