TOP : 1904 Pope-Toledo in '05 London-Brighton Run.
(C) Photograph by Joe Honda.
 昨年(2005年)の12月某日、私は久しぶりにジョーホンダ氏のお宅にお邪魔する機会を持った。いつもながらの温かい笑顔で迎えて頂き、最近のジョー氏のご活躍を伺う事が出来た。
 「今のスーパーGTレース等の取材は後輩達に譲って、今後私は、自分の好きなことをやっていくつもりだ」と開口一番意外とも思える言葉をジョー氏より聞きながら、私は数枚の写真をジョー氏より手渡される。
「クラシックカーのイベントですか?」と少々戸惑いながら私はジョー氏に尋ねてみる。
「ロンドン〜ブライトン ランというのを知っているかな?」「いや、初めて聞きました」と私。
「このイベントは世界最古の走行会なんだよ」とジョー氏。

 現在行なわれている“ロンドン〜ブライトン ラン”は、1896年から1904年までに作られた車だけによる走行会で、ロンドンをスタートして、港町のブライトンまでの公道、約80Kmを走るものであり、決してレースではないということと、世界から約500台の車が集まる大イベントである事、そして、それら最古の車たちのことを“ベテランカー(または、パイオニアカー)”ということを教えて頂いた。
さらに、ジョー氏はわざわざこのイベントを取材されるために、昨年11月に行かれたというのである。まさに、“ジョーホンダ モーターリングの原点へ回帰”である。
「次の企画ページとして、是非このイベントの紹介をしてもらいたのだが・・・」とジョー氏。
私にとってこのジョー氏のお申し出をもちろんお引き受けすることになるのだが、まったくもってこの時代の車や時代背景に対して、知識を持ち合わせておらず、しばらく戸惑いを隠せないでいたのが本音である。

 そこでまずは「ロンドン〜ブライトン ラン」について調べなければならない。そして、19世紀後半の時代。さらに、自動車の起源も同時に調べなければこのイベントの真の意味を理解する事は出来ないのではないかと判断。ジョー氏には、自分が理解するまで少々時間が欲しい旨をお伝えして、資料集めを始める事にしたのである。
下記の文章は、可能な限りに調べての内容である。しかしながら、まだまだ真に理解するまでには至っておらず至らない部分等はどうかご理解の上ご了承願いたい。

 「ロンドン〜ブライトン ラン(走行会)」を皆さんご存知だっただろうか?!
実は、私もジョーホンダ氏にお話を伺うまではまったく知らないでいた。しかし、その内容を私なりに調べていくうちに、このイベントの持つ意味の重大さが次第にわかってきたのだ。
しかし、このイベントを正しい解釈で解説している書籍は、日本における自動車史の第一人者である“高斎 正”氏が解説された“ロンドン〜ブライトン1896 クラシックカー走行会の起源 インターメディア出版”を参考にする以外まったく手立てはない。

 1896年8月14日、イギリス国内において、それまで小型蒸気自動車、および、ガソリン自動車の走行を規制していた「赤旗法(下記参照1)」が、「公道でのロコモーティブの使用に関する法律を修正するための法案」がイギリス議会に提出されて通過したことにより、小型蒸気自動車、および、ガソリン自動車の公道での走行規制が大幅に軽減されたのであった。
こうして出来た法律が、「公道における軽量ロコモーティブ法(下記参照2)」である。
そして、その法律が効力をもつようになるのが、1896年11月14日(土)だったことから、その日をイギリス自動車史では、「モーターリスト開放の日」と呼ぶようにあった。この新法規により他のヨーロッパ先進国に遅れをとっていたイギリスの自動車業界が一挙に開花したのは言うまでもない。
 また、その日を記念して、当時のイギリスの“モーターカー・クラブ”が主催したイベントが、この「ロンドン〜ブライトン ラン」だったのである。

*1「赤旗法」とは、車両の最高速度を、郊外で時速6.4Km/h、市街地でその半分の時速3.2Km/hの低速度に押さえ、さらに各車両の前を、赤い旗を持った人間が歩いて先導することが義務付けられていた。
*2「公道における軽量ロコモーティブ法」とは、車両の最高速度は22Km/hとし、赤い旗を持った人間が歩いて先導することを廃止。

 イギリスで「赤旗法」が発令されていた1860年代半といえば、まさに鉄道躍進の時代であった。また、同時期、蒸気機関車の車輪を変えて道路を走るようにした大型蒸気自動車も登場していた。しかし、機関車と同じような重量を持つ蒸気自動車が一般公道を走るとなると、当時の無舗装道路では弊害が多く、やがて規制するようになる。この時代、まだまだ“馬”と“馬車”が市民の生活の中では主役を務めており、蒸気自動車という乗り物はある種異端児扱いされていたのが現状であった。そして、それらを規制する法律として、1865年に登場したのが「赤旗法(ロコモーディブ法)」であった。それは開発途上の軽量蒸気自動車やガソリン自動車にも適用されることとなり、1896年の「モーターリスト開放の日」までイギリスは自動車産業から取り残される事となった。

 ところで、ガソリンエンジンを持つ走行実用可能な自動車が誕生したのはいつのことだったのだろうか。それは、ドイツの“カール・ベンツ”博士が、「ガスエンジン(内燃機関)駆動による乗り物」として初めて実用化したのが最初で、現在に通じるガソリンエンジン搭載の車の起源となった。
特許認定は、1886年1月29日、ドイツ国内での認定が最初で、さらに同年、フランス国内での特許の認定も受けている。
この特許内容は、エンジンの電気点火装置、デファレンシャル、気化器改良、クラッチなど、今の自動車の基本的装備を発明、または開発改良した内容であり、まさに、走行可能なガソリンエンジン自動車の生みの親であった。
 このように19世紀末の時代背景は、ガソリン自動車が生まれたばかりで、将来、自動車がどのように発達していくかはまだまだ不透明で分からなかった時代だったと言える。
 
 ところで、同時代の我が日本に目を向けてみると、最初に自動車が国内を走ったのは、1898年に一台のフランス製パンアール・エ・ルヴァソール車が、売り込みのために渡来したのが最初であった。単に比較は出来ないが、ちなみに、1895年、フランスにおいて世界最初の自動車レース「パリ〜ボルドー往復自動車レース」が開催されている。ベンツ博士が、ガソリン自動車の特許を取得してから約10年後、すでに自動車レースが行なわれていたことはまさに驚異的ではないだろうか。
そのあまりにも大きい日本とヨーロッパの歴史の差は、現在、自動車生産世界第2位の日本と言えども永久にこの歴史と伝統の差を埋めることは不可能に思えるのは私だけだろうか。


TOP :London Brighton Run and #46 "1900style  De Dion Bouton".
 さて、現在も続いているこの「ロンドン〜ブライトン ラン」という走行会は、いったいいつから行なわれているのだろうか。
この走行会は、1902年に幕を閉じた「ロンドン〜ブライトン ラン」を1927年に再開したのが始まりである。現在は“RAC(ロイヤル・オートモビル・クラブ)”が主催し、毎年11月の第1日曜日に開催している。また、走行会の目的は、「当時のパイオニアたちがどんなモータリングを行なっていたのか、現在の人たちに理解されるため」であり、出場できる車は、1904年末までに製作された車に限定されている。
ちなみに、1904年末までに作られた車のことを“ベテランカー”、1930年末までに作られた車を“ヴィンテージカー”と呼んでいる。

 この自動車創成期の記念すべきイベントを、日本では、今まで取材し紹介されたことはほとんどなかったとジョー氏は嘆く。
なぜならば、同イベントは、実に世界中から約500台のベテランカー、200万人以上の観客が「ロンドン〜ブライトン ラン」に訪れる世界的大イベントなのだから・・・。
では、さっそくこの走行会の模様をジョーホンダ氏の素晴らしい沢山の写真で、ご紹介することにしよう。
 

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2005 LONDON TO BRIGHTON RUN START

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 この「ジョーホンダ ロンドン〜ブライトン ラン」企画ページにおいて下記の文献を参考にさせて頂いた。これらの書籍は、日本において唯一とも言うべき貴重な文献であり、自動車の歴史を正しく知る上では必要不可欠なものである。

 *インターメディア出版発行 高斎 正氏著作 「ロンドン〜ブライトン1896 クラシックカー走行会の起源」
 *論創社発行 高斎 正氏著作 「モータースポーツの楽しみ」
 *草思社発行 カール・ベンツ著作 藤川芳朗氏翻訳 「自動車と私 カール・ベンツ自伝」
 *三樹書房発行 佐々木 烈氏著作 「日本自動車史」

 


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