#18 Ferrari 312P and #6 Ford GT40 in Le Mans 1969.
(C) Photograph by Joe Honda.
MSL
2004
Le Mans 
Prototype Car & Sport Car
Sprint Race

25/JUL/2004

Exciting VS CBR VS MSL 
世紀の大一番 !!


 
 
 
 
 最初にシグマに乗り込んだのは、富士、筑波で再三テストしたことがある僕だった。ル・マンのコース上にシートベルトを締めると、さすがに実感がわき、日本人としてル・マンを走る言い知れぬ喜びにひたった。
 6Kmのミュルサンヌストレートは、さすがに長く、1.6Kmの富士の直線(1973年当時)の比ではない。走っても走っても直線といった感じであった。
 ル・マンのコースの第一印象は、どこもグリーンが非常に狭く、危険がいっぱいというのが本音で、スピードに対しグリーンが狭いといわれる鈴鹿とも比較にならないほどだ。しかし、この印象も走り込むにつれてうすらいでいき、手慣れたコース員のおかげで、思ったより安全度が高いことを確認した。
 
 いよいよ決勝である。あとにも先にもやり直しはきかない。僕は覚悟を決め、ひたすら無心にかえることに努力した。
 国家的大祭典ともいえるル・マン24時間は、見るもの聞くもの目新しく、感動に値した。大観衆といい、その年齢層の広さ、盛り上がりなど、歴史を感じさせてくれる。スタート前にはフランス駐在の中山大使が、「あなた達が出場するので、初めて私もル・マン24時間に招かれた。とっても鼻が高い」と激励してくれ、我がピットは浅岡重輝、高原敬武らの応援団でにぎやかだ。僕らはスタートが近づくにつれ、その興奮をひしひしとかみしめ、同時にル・マンに来て良かったと思った。
by Hiroshi Fushida 
(C) Photograph by Joe Honda 
 
 3000数百人・・・いなかレースの観客動員数ではない。驚くなかれ、<'70 ル・マン24時間レース>にウンカのごとく集まってきたジャーナリストの人数なのだ。観客動員数が約30万人だから、その1割がジャーナリストという名の無料入場者。このやっかいで年ごとに多くなるいっぽうの大集団をさばくために、プレス・ビルを新築しなければならなかったのだから、ていのいい圧力団体である。
 観客動員数では<ル・マン24時間>がまず筆頭。<インディ500>が20数万人、F-1、国際メーカー選手権ともならして10万人前後といったところだが、そこで繰り広げらる報道合戦は、日本では考えられないくらいシビアなものだ。

 そもそもレースカメラマンとしてやっていく決心をしたのは、1966年に富士スピードウェイで行われた日本インディレースの取材に行ったの契機であった。高校生のころカメラを持って浅間のオートバイレースを見に行ったりし、日本大学芸術学部の写真学科に進んだものの、卒業した頃はレースを撮ろうなどとは考えていなかった。
それがたまたま取材に行った日本インディレースに見せられたといってよい。今考えてると、ジム・クラークやグレアム・ヒルをはじめF1レースのスターがたくさん出場していた。このとき、新人として注目されていたジャッキー・スチュアートが気に入り、サインしてもらうことにした。とっさのことでサインしてもらうものがない。持っていたカメラを差し出し、その裏蓋にサインしてもらった。スチュアートもそんなものにサインするのは初めてのことだったのだろうが、私は嬉しかった。
 日本インディの取材を終えると、さっそくヨーロッパのレース取材に行く準備をした。スケジュールを調べ、パスポートをとり、ヨーロッパで足となるカローラを購入して船でマルセイユへ送った。卒業して3年、ようやく目的を見つけたのである。
1967年3月終わり近くに横浜を発ち、ナホトカからハバロフスク、モスクワを経て、フランクフルト、ジュネーブ、そしてマルセイユに到着した。
 6月に行われたル・マン24時間レースの取材もした。F1レースに慣れてきつつあっても、ル・マンの凄さには驚いた。第一、プレスパスをもらうにしてもF1など問題にならない。いまではF1GPの取材となると特別なメンバーを除けば大変だが、当時は申請さえすれば誰でももらえる感じだった。ところが、ル・マンの方はそうはいかなかった。
 現在はル・マン24時間は日本車が出場し、日本では大々的に報じられるが、当時と比較すると問題にならないくらいル・マンの人気は下がってきている。かつてはフランス最大のモータースポーツイベントで、とにかく猫もしゃくしも24時間、つまり夜中中大騒ぎするお祭りであった。

by Joe Honda 
(C) Photograph by Joe Honda 
 最初のコメントは、1973年発行のAUTO TECHNIC誌8月号に記載されていました「世界のヒノキ舞台、ル・マンに感動 ル・マン出場ドライバー・鮒子田 寛」より鮒子田 寛氏のコメントを引用抜粋させて頂いたものです。
 生沢 徹氏と共に、日本人として初めてル・マンを走った鮒子田 寛氏の文章は、誠に感動に満ち溢れています。映画「栄光のル・マン」でしか知らなかったル・マンの裏表を初めて感じた氏だからこそ書けた内容ではないでしょうか。
そんな鮒子田氏と現在私は個人的にお付き合いさせて頂いていることを考えましたら、本当に感激ものであり、また幸せであるとつくづく感じるこの頃であります。さらに、今年からMSLのCAN-AMシリーズになんと氏の名前をお借りして「Hiroshi Fushida Cup」という名前で運営させて頂いている現実を思うと本当に感無量です。
現在、鮒子田氏は、全日本F3選手権において「Inging Motor Sport Team」の監督をされており、成績はというと、驚くなかれドライバー/チーム共に現在首位に立っているのですから凄い!!なんとか今年は総合優勝して頂きたいと思っている次第であります。頑張れ!鮒子田 寛監督!!

 さて、次のコメントは、日本人モータースポーツカメラマン兼モータージャーナリストのパイオニアとして、私たちに多大なる影響を与えて頂いた“恩師”というべき「ジョー・ホンダ」氏のものであります。内容は、1971年1月号「AUTO SPORT」誌、および、氏の著作本「F1サーカス放浪記」より、内容を引用抜粋させて頂きました。
 ところで、私が記憶している60〜70年代初頭の欧米モータースポーツの写真的イメージは、全てと言って良いほど氏の写真により脳裏にインプットされています。ある意味では、ジョー・ホンダ氏がいなければ今の記憶はないわけであり、まさに、私にとってジョー・ホンダ氏は“恩人(!)”と言うわけであります。

 ル・マンとは・・・。両氏の言われるとおり“お祭り”であり、“国を挙げての一大行事”でもありました。そして、当時のマニファクチャラーズ選手権についてジョー氏は「確実に、F1より人気がありましたよ」と言われるとおり、「プロトタイプカー&スポーツカーレース」は当時の“花形レース”だったわけです。
そんな花形レースについても、MSLとしては、今後、年に最低1度はやって行きたいと思っていますので、ご期待ください。
さて、余興はこのくらいにして、注目の「MSL Le Mans / Prototypecar & Sportcar」と「Can-Am Challenge Hiroshi Fushida Cup」のレースレポートを早速ご報告いたします。そして、掲載写真、掲載コメント等、多大なご協力頂いたジョー・ホンダ氏と鮒子田 寛氏に、この場を借りて心からお礼を申し上げます。
 

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(C) Photographs by Joe Honda.
Special thanks Hiroshi Fushida.